最後まで“雑草魂”を見せつけた。巨人・上原浩治投手(44)が20日、21年の現役生活に別れを告げ、東京都内で引退会見を開いた。異例のシーズン途中での決断も「今年で辞めることは最初から決めていた」と涙ながらに明かした背番号19。日本球界前人未到の“トリプル100”を成し遂げた不屈のレジェンド右腕が熱く訴え続けたメッセージとは――。本紙名物連載「中継ぎピッチャーズバイブル」の担当を務めた記者が思いをつづった。

 2016年2月19日、レッドソックスのキャンプ初日の朝。クラブハウスに姿を見せていた上原は全体練習に参加せず、ユニホームに袖を通すこともなく早々と球団施設を後にした。上原はその3日後から別メニューで始動するのだが、理由は「軽い頭痛が発症していたため」というのが当時の説明だった。だが、実はその数日前、上原は近郊にある病院の集中治療室で酸素チューブにつながれていた。

「これは野球どころではないな、と思いましたね」。シーズン終了後、こう振り返った時の上原の表情は、今でもはっきりと覚えている。

 あの時の上原は、自宅のあるボルティモアから飛び立った民間機が、キャンプ地のあるフロリダ州フォートマイヤーズの空港に着陸する直前、突然、機内でひどい頭痛に襲われたという。家族に付き添われ、空港から病院へ直行すると集中治療室へ。検査は6時間以上に及び、その結果、目の奥の血管に2~3ミリの腫れがあることが発覚。医師からは運動禁止を告げられたという。

 上原によると前兆らしきものはなく「血管が腫れたような症状でした。どうやら(発症は)日本人に多いみたいですね」ということだったが「何が起きたのか分からず、(当初は)野球どころではなかったですけど、野球、やりましたね」と大事には至らず。キャンプは出遅れたが開幕には間に合わせ、何事もなかったかのようにマウンドに上がり続けた。シーズン中も、ボストン市内の病院で検査を受けるなどしたが再発はなく、家族のことを思うと「無事に1年過ごせて良かった」。途中、故障者リスト入りすることはあったが、地区シリーズで敗退するまでメジャー8年目のシーズンを走り抜いた。

 そんな上原は契約交渉時に必ず出てくる「年齢」、とりわけ「球速」というカードが切られることには、いつも「それで打たれているなら言っても構わへんけど。こっちはそれでずっとやっとんねん」と怒っていた。そして「グラウンドに出たら年齢は関係ない。それに野球は球速を争うスポーツやない」と、持ち味の反骨心を出していた。囲み取材では淡々と話していたが、たまに本音が出ていたのを思い出す。

 13年にワールドシリーズを制した後、レッドソックスの選手たちがホワイトハウスに招待された。オバマ大統領は約10分間のスピーチの中で「コージは本当にうれしそうだったね」などと優勝決定の瞬間を振り返ると、オバマ氏の後方にいた上原ははにかむような笑顔を見せた。時の米国大統領に「コージ」と名指しされたことは、日本のスポーツ史にとっても歴史に残る出来事。あの時の笑顔もまた、忘れられない。

(MLB、中継ぎピッチャーズバイブル担当・カルロス山崎通信員)