天龍プロジェクト主催によるミスタープロレス・天龍源一郎(69)と“最強”こと高田延彦氏(57)のトークバトルが22日、東京・目黒区のStudio CLASKAに超満員180人のファンを集めて行われた。テレビのワイドショー番組は、実に6局が取材に訪れた。

 天龍と高田氏は1996年7月20日のUWFインター神宮球場大会で初対決。歴史に残る激闘の末、高田氏が勝利して同年の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」年間最高試合賞を獲得。12月13日のWAR両国大会では天龍が壮絶なリベンジを果たした。いわば今回のトークバトルが「3度目の一騎打ち」となるだけに、開始から場内は異様な熱気に包まれた。

 高田氏は冒頭で「楽屋に入った瞬間に天龍先輩がいらしたので、アイドリングできないままここに座っています。今日はがっつり楽しんでください!」と笑顔で語った。

 天龍は若き日々を振り返り「あのころ新日本プロレスは、毎週金曜夜8時から放送されてたじゃない。いつも猪木さんの横にピッと直立不動で立って、ガウンを受け取っているりりしい若者を見て、馬場さんが『オイ、お前らこの若者を見習わんか。ダラダラとしやがって』と怒ってさ。今までとは別のシステムを導入したんだよね」と意外な事実を明かした。

 お互いコインランドリーもない時代に新弟子時代を過ごした2人は、それぞれの苦労話を披露。高田氏が「毎日、猪木さんのマッサージを3時間やってました。でも最後まで僕が抱いていた猪木さんのイメージは変わりませんでしたね」と語るや、天龍は「そのメンテナンスが猪木さんの選手生命を長くしたと思うよ」と正論中の正論を吐いた。

 その後も2人は、馬場さんと猪木氏をルーツとして持つ人間としての胸中を明かした。「俺たちは(全日本とは)違うんだという意識が強かった。異種格闘技はその象徴だった」(高田氏)、「全日本より新日本のほうが圧倒的に先端を走っていましたよね。全日本はおっとりしていた」(天龍)、「でも輪島(大士=元横綱)さんが入ってからは違ったでしょ。僕らテレビにクギ付けだった。『天龍さん、やり過ぎじゃないの?』って。録画して移動バスのビデオで見てました」(高田氏)、「当時の格闘技はプロレス、ボクシング、相撲しかなかった。そこにUWFという異分子が入ってきたから、俺たちは焦ったよね」(天龍)と貴重な証言は続いた。

 そして歴史的な初対決に話が及ぶや、高田氏は「当時のUインターの経営は苦しかったけど、試合の話が来たときは『えっ? 本当に神宮球場で天龍源一郎と戦えるの?』というのが正直な気持ちだった。ファイターであり、アーティストであり、格闘家であり、相撲から叩き上げてきた大先輩。対角線上に立って大きな勲章にしたいという気持ちだった」と当時の心境を語った。

 決戦本番に話が及ぶと「天龍さんと戦うと、宇宙に行ったり、リングに戻ったり、観客席から客観的に試合を見ることができた。これが天龍マジックなのかなあと。あの年に最初で最後のMVPを頂いたのは天龍さんが相手だったからこそですよ」と語った。

 天龍は「相撲からプロレスに打ち込んだ天龍源一郎と、UWFという進化系の高田延彦がどう交わるのか。興味があった。結果的に球場が超満員になったし、満足してますよ。しかしキックはスッと的確に入って痕が残ったなあ…」と感慨深そうな表情を浮かべた。

 高田氏は「試合をやりながら恐怖感と幸福感を感じつつ、お客さんともキャッチボールを続ける。あんな感覚は初めてだった。チョップは厳しすぎたけど(笑い)。今でも不思議なんだけど、ずっとこの瞬間が続けばいいなと思いながら戦っていた。終わった後は妙に寂しかった。最高の時間や旅は終わると、寂しいんだなという実感があった。天龍さんのプロレスは“色気”がすごかった。天性のものでしょうね」と独特の表現で、こちらもまた感慨深そうな表情を見せた。この言葉に天龍は「(ルーツは)テリー・ファンクですよ」と照れ笑いを浮かべた。

“熱戦”は1時間半以上にも及び、最後に両雄はガッチリ握手。高田氏は「天龍先輩に呼んでいただいたことは宝物であり財産です。ギネスの最高記録は116歳。だったら156歳くらいまで生きて、天龍魂を後輩に継承していただきたいと思います!」と熱く締めくくった。

 天龍は9日に小脳梗塞を患っていたことを明かし、公の場に姿を見せるのは革命戦士・長州力(67)とのトークバトル(7月21日)以来となったが「(高田氏は)同じエリアに属する選手だと思っていた。やっぱり俺にとっては仲間ですよ」と再会に感激した様子だった。

 天龍は年内にもう一度、11月17日にトークバトル(対戦相手は大物X)を開催する予定。不死身の69歳はどこまでも元気だ。