【この人の哲学(5)】リバイバルヒットしている「め組のひと」や中森明菜の「少女A」、チェッカーズ、矢沢永吉の数々のヒット曲で知られる作詞家の売野雅勇氏。今回は「流され人生」の売野氏が、唯一自ら動いたというあの大物アーティストとの仕事を語る。

 ――長戸大幸さんとはその後

 売野氏:出会った1年後、素晴らしい声とメロディーの曲を聴いて、CMソングにしたいとプレゼンしたら、スタジオに現れたのが織田哲郎さんと事務所社長の長戸さんでした。そして1982年に沖田浩之のアルバムを長戸さん作曲、僕が作詞でLP1枚分やりました。アルバム1枚を1人の作曲家とがっちり作るって、そんなにないんですよ。

 ――一度の偶然で終わらなかったんですね

 売野氏:チェッカーズの「涙のリクエスト」がヒットしたころ(84年)、長戸さんから「取材したい」と呼ばれてね。ホテルの一室に行ったら、ビデオを撮りながら「涙の――」の歌詞の書き方について細かく、分析するように質問されたこともありました。きっとヒットの構造、法則を研究してたんでしょうね。懐かしいね。またお会いしたいな。

 ――TUBE、B’z、ZARD、大黒摩季…次々とヒットを出すのはその後ですね。お話をうかがっていると「偶然を大切にする」からこその「流される人生」なんですね

 売野氏:ところがね、唯一、自分から道を切り開いて仕事をした人がいるんです。矢沢永吉さんです。悔しかったんですよ、他の作詞家に注文が行くのが。なんで俺じゃないの? 俺の方がうまく書くのに、って。仕事で悔しいと思ったの、これだけです。作詞家になって一番書きたかった人だから。一切売り込みはしなかったけど、この時は信念を曲げました。

 ――なぜですか

 売野氏:キャロルが圧倒的に好きだったんです。デビューしたのが大学3年生の時(72年)。デビュー翌年の文京公会堂でのライブを見に行って、そのころから矢沢さんの大ファンです。自伝「成りあがり」は単行本を買って、文庫も5~6回は買って、思うことがあると読んでました。

 ――どのように切り開いたんですか

 売野氏:88年ですね。当時の東芝EMIの制作ディレクター、桃井良直さんにお会いして気持ちを伝え、矢沢さんに手紙を渡してもらうことにしたんです。自分の思いや自分ならこう書くということを600字詰めの原稿用紙、ひとマスに2文字書いて20枚以上。すごい量だね。

 ――思いが通じたんですね

 売野氏:その数日後、直接お話しして、作詞が決まりました。で、一曲目がシングルになった「SOMEBODY’S NIGHT」。矢沢さん、すごいよね。普通ならアルバムの一曲とかで小手調べするでしょ。そうじゃなくいきなりシングルだから。ダメならボツにすりゃいいって話だけど、「こいつに賭けてみよう」ということだと意気に感じますしね。

 ――一緒に仕事してみていかがでしたか

 売野氏:優しく、男らしく、器が大きく、人生の面白さを知っていて…そういうの全部持っている人。そういう人が歌うと、歌が変わるんですよ。歌詞って、自分の中身が出るんです。書いた歌詞には自分のにおいがある。だから変に歌われると嫌な感じがするんだけど、矢沢さんが一度体に入れて歌として出すと、彼の人生が刻み込まれて違うものになってるんです。自分に矢沢さんがプラグインされちゃうというか。これは作詞家の醍醐味だね。

 ――信念を曲げて売り込んだかいがあったんですね

 売野氏:あれは大きかったですね。矢沢さんと知り合えたことも、仕事ができたことも。矢沢さんは人生を肯定する何かを持っている人。ちょっとした天使というか、人間以上の存在。そんなふうに思ったかな。あんな人、他にいないですよ。(続く)

★プロフィル=うりの・まさお 1951年生まれ。栃木県出身。上智大学文学部英文学科卒業後、コピーライター、ファッション誌副編集長を経て作詞家に。82年に中森明菜の「少女A」が大ヒット。チェッカーズ、郷ひろみ、矢沢永吉、SMAPなど数々のアーティストに作品を提供。映画・演劇の脚本・監督・プロデュースも手掛ける。著書に「砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々」。ロシア出身の美貌のデュオ「Max Lux」をプロデュース。