【ネット裏・越智正典】プロ野球の新人選択会議が終わった。ドラフト直前に亡くなったカネやんが元気だったら(ロッテ1位指名の)“佐々木朗希よ、走れ走れ”と叫んだにちがいない。そして、気がはやく、もうお年玉を用意したのかも知れない。1961年、国鉄入団の徳武定之(早大三塁手)にはお年玉1万円…。

 ことしのドラフトでは育成選手を別にして、74選手が指名されたが、せんだって本紙に「仙さんとともに」を連載した早川実は、長い球歴を振り返って指名選手に、もっと走れ!! もっと投げ込め!! もっとバットを振れ!!と祈るような想いでいる。

 ソフトバンク監督工藤公康は、名古屋市千種の愛知工大名電高校で授業が終わり、ナインが春日井市のグラウンドに向かう野球部のバスに乗せてもらえなかった。監督中村豪は同乗者に「公康は走ってついて来ていますか。1年生なのにわしはむごいことをしとるんで、振り向けません」。工藤は13キロを走った。

 千葉県立成東高校の投手鈴木孝政(中日OB会長)は、蓮沼村(現山武市)の家から20キロの道のりを走って、毎日、高い丘の上の学校まで登下校した。父親の教えは「男、裸一貫」。ドラゴンズのスカウト田村和夫(中央大)が、ひたむきな走姿と、家風と、人間教育第一の校風に惚れた。72年1位指名。田村は、鈴木孝政が結婚するときは、勿論披露宴に招かれていたが、なんと開宴2時間前には、もうホテルの来賓控室に着席していた。

 のちに長嶋茂雄付きになる左腕投手小俣進が広島から巨人に移籍になったのは76年のことであるが、数日後にいうのであった。

「読売巨人軍陸上競技部に入部しました」。走れ! 熱血寮長、武宮敏明の選手育成訓練を活写した。

 大投手杉下茂は雨で遠征試合が流れると、帝京商業以来の恩師、中日監督天知俊一に「キャッチャーをお願いします」。宿の横丁で投げ込みをやった。敗戦から9年、駅弁は買えるようになったが都会は住宅難。屋内練習場などない。その54年、中日は巨人を破って優勝。川上哲治、千葉茂、別所毅彦…らの巨人軍第二期黄金時代はこの師弟の投げ込みで終わった。天知、杉下は日本選手権でも西鉄ライオンズを破って日本一。結団以来の栄冠であった。

 同じ54年の暮れ、早実の3年生、のちに“安打製造機”と呼ばれることになる榎本喜八が荒川博(早実、早大、毎日オリオンズ)を訪ねて来た。荒川夫人、和子さんの実家は当時、新宿区鶴巻町の早実正門前の大きな文房具店で、校内売店に手伝いに来ていたので、訪ねやすかった。

「昨日約束したとおりに朝500本、夜500本、毎日バットを振って来ました。プロ野球に入れて下さい」。荒川は慌てた。実は約束したのをすっかり忘れていたのだ。荒川はすぐに球団へ行き「獲って下さい。きっと打ちます」。榎本は55年別府キャンプで弾丸ライナーを連発。昇給。オープン戦が始まるとヒットまたヒット。昇給。公式戦が始まる前に2度の昇給の新記録。この年新人王。「あのとき冷や汗かいちゃった」。“師匠”は肯いてくれた監督別当薫にいつまでも感謝していた。

=敬称略=(スポーツジャーナリスト)