相方の自殺がなければ、「ツービート」「横山やすし・西川きよし」と並ぶ人気者となり、日本の漫才界を変えていたかもしれない…。

 1970年代に人気を集め、その後も活躍を続けた漫才コンビ「Wヤング」の平川幸男(ひらかわ・ゆきお、本名・幸朗=こうろ)さんが大阪市内の病院で11日に亡くなったことが分かった。78歳だった。葬儀・告別式は近親者で営む。

 64年に中田治雄さんとWヤングを結成。ダジャレの連発やテンポの良い掛け合い、「ちょっと聞いたあ」などのギャグで一躍人気者になり、74年に上方お笑い大賞金賞、75年と78年に上方漫才大賞を受賞するなど、関西では、やすきよと双璧の人気を誇った。

 当時、ツービートとして同じ舞台に立っていたビートたけし本紙客員編集長は「Wヤングさんにだけは勝てないと思った」と明かしたこともある。それほど傑出した実力を持っていたのだ。

 だが80年に始まった空前の漫才ブームにWヤングの名はなかった。というのも前年の79年、相方の中田さんが熱海の海岸から飛び降り自殺したのだ。理由は野球賭博などで作った借金だった。

「もし中田さんが自殺しなかったら、Wヤングは漫才ブームで、やすきよやツービートと並ぶ人気者となったはず。荒稼ぎして、博打の借金なんてすぐに返せたはずなのに」(お笑い関係者)

 その後、平川さんは84年、後輩の佐藤武志(65)と2代目「Wヤング」を結成したが、その時にはすでに漫才ブームは終わっていた。

「中田さんが自殺してから2代目を結成するまで5年もたっていたので、過去の実績はなかったものとされ、新人と同じ扱いをされる屈辱も受けた。それでも腐らずに続け、いつしか大阪の劇場では他の芸人に負けず爆笑を取るコンビになった」(同)

 佐藤は「あと10年はやれると思っていました。それくらい元気でパワフルな男でした」とコメント。あの漫才が二度と見られないのは、残念としか言いようがない。