【天龍源一郎vsレジェンド対談「龍魂激論」(4=後編)】ミスタープロレスこと天龍源一郎(70)が、レジェンドと語り合う「龍魂激論」で“炎の飛龍”藤波辰爾(66=ドラディション)と激突。ジャイアント馬場、アントニオ猪木の「BI砲」秘話が明かされた前編に続き、後編ではお互いが終生のライバルと公言する革命戦士・長州力について激論を交わした。さらには歴史的な一戦となった1996年4月29日東京ドーム大会の天龍VS藤波にまつわる驚異のエピソードとは――。

 天龍 1970年代後半の米国修行中、フロリダで長州と一緒になる時期があったんです。カール・ゴッチ道場が大嫌いで「何で俺だけこんな場所でやりたくないことばっかやらせるんだコノヤロー」と、いつもボヤいていた。俺は「いいぞいいぞ。もっと言え」と拍手したけどね(笑い)。

 藤波 確かにレスリング時代と違う練習を強要されて苦労もあったと思うけど、僕よりむしろ彼のほうがエリートだった。五輪まで出場して専修大から「大型新人」として入門してますから。こっちは15歳で先にプロ入りしたとはいえ、格闘技は何も知らず陸上競技を経験した程度。先輩から言われたことを必死にこなしていくだけだった。

 天龍 俺も大相撲から転向したから、長州の気持ちはよく分かった。何で五輪まで行ったのに、いまさらゴッチ道場で練習しなくちゃなんないんだよって。フロリダで傷をなめ合っていた。新日本は猪木、藤波で全日本は馬場、(ジャンボ)鶴田という時代に入っていたから、エネルギーを発散できない者同士、共感できる部分は多かった。

 藤波 だからいわゆる「かませ犬事件(※)」だって「何が起きてるんだ。なぜこいつは俺を目の敵にするんだ」って把握できなかった。意味が分からないわけですよ、こちらは。

 天龍 ちょうど巡業中の宿舎でその試合を見て驚いた。「こいつら日本人同士で何やってんだ」と。全日本は完全な縦社会だから、絶対にあり得ない光景だった。

 藤波 当時の新日本は、誰が何を起こしても不思議じゃなかった。猪木さん自身がそういう気性だったし、縦社会を守っていたら上に行けない。自分から何か仕掛けなければいけない。長州の一件だってそう。彼はどうやったら自分をプロレスで生かせるか、ストレスを抱いていたと思う。

 天龍 確かに藤原(喜明)組長のテロリスト事件(84年2月3日札幌、長州を花道で襲撃)だって、全日本じゃあり得なかった。俺はこの瞬間まで新日本は完全な縦社会だと思っていたけど、逆だったってわけか。感慨深いな…。

 藤波 長州が本能のまま動けたのは僕との戦いからでしょう。ありったけの思いをぶつける相手ができた。でも受ける僕は大変でした(苦笑)。逆に僕は70年代のゴッチ道場での修行があったから長州の攻撃を受け止められた。

 ――「名勝負数え歌」と呼ばれた

 藤波 最初の広島(82年10月22日、ノーコンテスト)はもうケンカ。負けたけど今でも名勝負と思えるのは蔵前国技館のWWFインターナショナル戦(83年4月3日)かな。平均視聴率20%以上なんて今じゃ考えられない。ファン同士がケンカして、大阪では2階からサントリーの角瓶を頭に投げられたなあ。

 ――天龍さんとは93年にシングル初対決。96年4月29日東京ドーム大会では、ドラゴンロケットをグーパンチで撃墜されて鼻骨を骨折した

 藤波 鼻から出血が止まらず、ボコッてドス黒い血の塊が出てきてね。鼻の穴に棒を入れて麻酔なしで1週間かけて骨を戻したんですよ。息子(プロレスラーのLEONA)も僕が死んだと思ったって。今、鼻がペチャって潰れて鼻声になってるのもあの試合のせいですよ。

 天龍 それは災難でしたね。

 ――藤波選手は猪木さんに続きWWEで殿堂入り(2015年)された

 藤波 WWEがすごいのは殿堂入りした選手には3か月に1回、映像などのロイヤルティーが終生入ってくるんですよ。日本もそういうシステムができればいい。僕は引退は考えていません。70歳過ぎても現役を狙います。

 天龍 この目でしっかりと見続けさせてもらいます。本日は長時間ありがとうございました。

 ※ 1982年10月8日の後楽園大会で、メキシコから凱旋帰国した長州は6人タッグ戦で猪木、藤波とトリオを結成。試合中に長州と藤波はお互いにタッチを拒否し殴り合いに発展した。長州は「俺はお前のかませ犬じゃない」と言ったとされる。