【この人の哲学:林哲司氏編(3)】最近、海外で再評価されている「シティ・ポップス」の楽曲や「悲しい色やね」などの大ヒット曲を数々世に送り出した作曲家の林哲司氏(70)。林氏はどのような人生を歩んでヒットメーカーになったのか。人生を変えた言葉や出会いとは?

 ――ブラスバンドを辞めて、高校からはどういう音楽を

 林氏:入学早々、朝、駐輪場に自転車を止めていたら講堂から生々しいビートが聞こえてきたんです。それが上級生のエレキバンドだと知ったのは、新入生歓迎会で彼らが出てきて、ベンチャーズの「パイプライン」を演奏した時でした。それを目の当たりにして、僕は「このバンドに入ろう」と勝手に決めていました。式が終わった後、ステージ袖で片づけをしている彼らのところに行って「バンドに入りたい」と伝えたんです。

 ――積極的です。返答は

 林氏:リーダーがボクをにらみ、少し間を置いて言ったんです。「ギターとアンプを持ってきたらいいよ」と。当時、どちらも高いから無理だと思ったんでしょうね。

 ――価格を考えるとハードルが高いです

 林氏:そこで、母を通して父に“おねだり”を繰り返しました。僕は、親も期待していた志望校に合格したから買ってくれてもいいじゃないと。毎日言い続けると、根負けしたのか、グヤトーンのエレキギターとテスコのアンプを買ってくれました。当時の価格で計8万円です。

 ――1965年の上級国家公務員の初任給が2万円ほどです

 林氏:とても子供が買える代物ではなかったですね。音楽をやってる分にはいいだろうと譲歩してくれたんでしょう。しかしその直後のブームにより、全国的にロック=不良というレッテルが貼られ、「うるさい、こんなもの!」と、父から怒られました。

 ――学校はエレキバンドを歓迎しなかったのでは

 林氏:文化祭前、入学して2か月で、僕が加入したバンドが校長室に呼び出されたんです。理由は「新歓で演奏した時にゴーゴーを踊った女子がいた」から。文化祭では「他の生徒を興奮させない」という条件つきで演奏が許されました。

 ――むむむ…。当時の高校って、今からは考えられない感覚ですね

 林氏:当時、1年生って丸刈りでしたしね。2年生からは髪を伸ばせたんですが、校長室に呼ばれた中で僕だけ坊主頭。校長も「え?」という顔で僕を見て、「この子はいいけど、君たちは…」と先輩を注意してました。

 ――坊主だったんですか!?

 林氏:坊主に詰め襟にエレキギター(笑い)。海外にはそんな少年いないよね(笑い)。学校が終わると、自転車の荷台にアンプを載せて、佐々木小次郎みたいにギターを背負って練習に行ってました。ただ文化祭が終わり、夏を迎えるころには先輩たちは受験勉強に忙しくなって、バンドとしての練習があまりできなくなるんです。

 ――高校生バンドならではの事情ですね

 林氏:一方でそのころ、僕はテレビで加山雄三さんを見て、衝撃を受けました。

 ――加山さん?“若大将”ですか

 林氏:「スター千一夜」という番組で加山さんがザ・ランチャーズと「恋は紅いバラ」(65年)という曲を披露してました。当時の歌謡曲とは全く違う。日本では他に聴いたことがない音楽を、バンドでやっていることがまず斬新だった。しかも、その曲は加山さんが自ら書いていた。これに驚いたんですよ。

 ――といいますと…

 林氏:ビートルズが自分たちで作った曲を演奏しても、それは地方に住む自分たちにとって、海外の遠い世界の話でした。加山さんが自作曲を演奏しているのを見て、スゲー! こういう日本人がいるのか! 日本人もできるんだ。じゃあ自分も作れるかも、と思ったんです。それからです。僕が作曲を始めたのは。作曲家の道に進んだのは、加山さんがきっかけだったんです。(続く)

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が4月15日に発売された。