【球界平成裏面史(41) 岡田阪神の巻(2)】平成17年(2005年)は岡田イズムを存分に発揮した。7回は藤川球児、8回はジェフ・ウィリアムス、9回は久保田智之というリリーフ陣「JFK」がズバっとハマッた。

 本当に漫画のようだった。直球だと分かっているのに、面白いように空振りを取った。7回の藤川は圧巻だった。後日談として岡田彰布監督は「あれぐらいはやると思とったよ」と豪語していた。では、なぜ最初から9回を藤川に任せる考えにはならなかったのか。

「そんなん簡単やん。9回の時点で勝ったまま試合を迎えるためには、7回と8回を抑えなあかんのよ。7回が打順の3回り目で一番大変なんよ。そこで『いけそやな』と相手に思わせんことよ。試合の流れを渡さんピッチングやんか。そしたらボールの勢いが一番ある球児やんか」

 分からないような、分かるような説明だがシンプルだ。7回に最も生きのいい藤川をぶつけ戦意喪失を狙う。8回は元守護神で経験のある横手投げ左腕のウィリアムスで目線を変える。最後はボールが重く被本塁打率の低い久保田で逃げ切る。岡田監督の思惑はドンピシャだったわけだ。

 04年の五輪期間に苦戦を強いられた岡田監督は安藤、ウィリアムス不在の期間で久保田をリリーフで起用。10月1日の横浜戦(甲子園)では初めて藤川、ウィリアムス、久保田の3人を同時に登板させ試運転も行っていた。

 当時のライバル球団スコアラーは「阪神戦は6回までが勝負。6回まで負けてたらほぼ負け。そこまでにいかに点を取るか。でも、焦りも出るから難しい」と口を揃えていた。05年は事実、6回まで先行した試合で73勝4敗2分けで勝率9割4分8厘。数字は雄弁だ。

 副産物として規定投球回数に満たない最多勝投手も誕生した。24試合で15勝3敗の下柳剛だ。15勝中、JFKに頼らなかった試合は4試合のみ。藤川は下柳を「いつも仕事をくれる社長です。おかげさまで給料が上がります」と表現していたほどだ。

 先発投手も野手も虎党も担当記者も、中盤までにリードしていれば勝てると確信した。JFKはそれぞれ信頼し合っており、支え合った。

 特に同級生の藤川、久保田からすれば8歳年上のウィリアムスが3人をまとめ上げた。「昨年まで自分がクローザーだったからといって、変なプライドはなかった。僕はガイジン助っ人。タイガースの勝利に貢献できればいい。メジャーで活躍できなかった僕に居場所をくれた。最高の仲間と2度も優勝できたのは人生最高の勲章だ」と、駐米スカウトとなった今でも語っている。

 投打がかみ合い、星野仙一監督が退任した03年からわずか2年後にリーグ優勝を果たした。歓喜に沸く虎党だったが、阪神はこの後、これまでに経験したことのないトラブルに巻き込まれていく。