【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た:キャシー中島編(9)】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(58)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。今回はゲストのキャシー中島(68)が見てきた六本木について。横浜から六本木に音楽とダンス文化の発信基地が変わった?(隔週連載)

 ――前回、舘ひろしさんとよく六本木の「パブ・カーディナル」(1971年開店)などのお店で出くわしたという話がありました。遊ぶ場所が横浜から六本木に変わったんですか

 キャシー:そうね。70年代の途中から、横浜にはほとんど行かず、六本木が遊び場になってきました。まず「キャステール」(74年開店)ね。その後、「ザ・ビー」(78年開店)とか、「サンバクラブ」(78年開店)とか、いい音楽をやるディスコができたから踊りに行くようになったの。キャステールで踊ってると、舘くんがいるのよ。いつも外国人やハーフのきれいな子と一緒でした。モテるなぁって(笑い)。

 ユカイ:舘さんは当時からモテてたんですか?

 キャシー:もちろんですよ! 

 ――キャシーさんもハーフ美女ですから舘さんに口説かれたのでは

 キャシー:それはなかったです。いつも女の子と一緒にいたし、私もいつも女の子といる人のとこに行きたくないし。

 ユカイ:ちょっと気が付いたんだけど、キャシーさんの“本拠地”が横浜から六本木に変わった時期って、米軍がベトナム戦争から撤退した少し後ですね。横浜から米兵が減り、音楽やダンス文化の発信地としての役割が、横浜から六本木に変わっていったってことかな。

 ――六本木も戦後に米軍が進駐して米兵相手の店ができ、その雰囲気に憧れた日本の若者が集まるようになった街ですね。1960年代には田辺靖雄を中心に大原麗子、井上順、ムッシュかまやつら六本木で遊んでいた人たちの「六本木野獣会」というグループもありました。皆さん後に歌手や俳優になっています。70年代になるとディスコが増え、渋谷や新宿と並ぶ盛り場になっていきますが、よそよりとがったイメージがずっとあります

 ユカイ:街の発展過程に共通点があるね。キャシーさんが仕事で六本木のテレビ朝日に行っていた(76年)前後、モデルやタレントが集まる新しくて魅力的な店が六本木に増えていたんですね。

 キャシー:そうね。あのころ、「夜のヒットスタジオ」がすごい人気があって、放送が終わると、司会の芳村真理さんが出演者を連れてキャステールに来てたの。会員制でいちげんさんは入れないから。

 ユカイ:新しい文化に敏感な人たちが集まる場所として、六本木が浮上してきたわけですね。当時はどんな音楽で踊ってたんですか。

 キャシー:ディスコ路線になったビージーズ(75年以降)とか。ビージーズといえば映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年)ね。「ステイン・アライブ」と「ナイト・フィーバー」。あとバリー・マニローの「コパカバーナ」(78年)も好きだったな。これはラテンぽい曲。このころ、音楽が変わってきたの。

 ――同じころ、元ゴールデン・カップスのミッキー吉野さんが「ゴダイゴ」として「ガンダーラ」(78年)、「モンキーマジック」(78年)をヒットさせてます

 キャシー:人気のゴダイゴにミッキーがいたからびっくりしちゃった(笑い)。ミッキーはカップスで一番年下。私と年が同じだから仲良くしてたのね。確か磯子に住んでいたのかな。家に遊びに行ったら大きなピアノがあって、弾いてくれたのを覚えてます。カップスを辞めた後にアメリカに行って、ずっと会わなかったから、ゴダイゴで出てきて驚いたし、体形が変わらないのにもビックリしました(笑い)。

 ユカイ:ミッキー吉野さんにはレッド・ウォーリアーズの「バラとワイン」を弾いてもらったことがあるんですよ。まさしく天才プレーヤーですよね。

 キャシー:その後に会って「あのころ、仲良くしてたね」なんて話して、少し前も横浜のイベントに一緒に出たり、仲良くしていますよ。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。

☆きゃしー・なかじま 1952年2月6日生まれ。米国・ハワイ出身。3歳のころから日本に拠点を移し、69年にCMモデルとしてデビュー。歌手、テレビタレントとして活躍する。72年からパッチワークを始める。79年に俳優の勝野洋と結婚。静岡県御殿場市に移住し、87年に同市にパッチワークの教室をオープン。現在はタレントとして活動する一方、全国に6店舗のキルトスタジオを開き、後進の指導に励んでいる。