【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た:キャシー中島編(最終回)】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。ゲスト・キャシー中島(68)編の最終回は、「新御三家」ほかキャシーが自らの目で見た70年代歌謡界の秘話を公開――。

 ユカイ キャシーさんは歌手デビューしてましたよね。

 キャシー 1970年、18歳の時にキャッシー名義で「ヴィーナス」って曲を出したんだけど、モデルの方がお金になるから歌手は辞めちゃった。

 ユカイ ショッキングブルーのあの名曲ですね。69年発売、翌年米ビルボードで1位になった。

 ――86年にバナナラマがカバーして大ヒット。日本では長山洋子さんもカバーしていましたが、そのずっと前にキャシーさんが歌ってたんですか

 ユカイ 日本で初めて「ヴィーナス」をカバーしたのはキャシーさんかもしれないですね。その後に再デビューして、「涙のドレス」(73年)とか出してますね。

 キャシー 何で知ってるの! ちょっと、やめてよ~(笑い)。馬飼野俊一さんに曲を書いてもらったんだけど、私の歌、あまり売れなかったの。

 ユカイ あの曲、ギターがめちゃヘビーです。再デビューの同期は西城秀樹さんや郷ひろみさん?

 キャシー 72年で、秀樹やひろみと同期です。秀樹のことはデビュー前から知ってたの。知り合いだった上條英男さんから「今度すごい子が入るよ」って聞いてたから。

 ユカイ 秀樹さんを発掘した上條さんから! 俺、秀樹さんのご自宅に招待してもらったことがあって、その時「デビュー前、俺はかなりの不良だったよ」って言ってました。当時はどんな方でしたか?

 キャシー プロ意識が高くて、すごく真面目でしたよ。当時、「ライオン ワオワオショー」という、歌手が集まって全国を回るイベントがあったのね。私はライオンのシャンプーのモデルをやっていたし、CMソングも歌っていたからよく出てたの。1か月ぐらい一緒に移動するから、仲良くなるでしょ。でも秀樹はそういう時も女性歌手の近くに来ないようにして、しっかり線を引いてました。

 ユカイ ファンに誤解を与えないように気を付けてたんですね。

 キャシー ひろみと一緒の時は、アン・ルイスと「誘ってここで話そうよ」と部屋まで行ってね。「ひろみくん」って呼んだら、ドアが開いて中から出てきたのがジャニー喜多川さん。「YOUたちは何しに来たの?」って聞かれたから「お茶でも…」と言ったら「ひろみはYOUたちとお茶を飲まない」って閉められちゃった(笑い)。

 ユカイ「新御三家」のもう一人、野口五郎さんはどうでしたか?

 キャシー 若いのにシャレばかり言ってた(笑い)。私が「帰る」と言うと、「君と僕はズボンの屁だね」って言うから「何それ?」って言ったら、「右と左の泣き別れ」って(笑い)。

 ユカイ 五郎さんは話が面白いし、頭の回転が速いんですよね。

 キャシー あのころの歌謡界は面白かったです。私、レコードがヒットしなかったのに新曲を出すと「夜のヒットスタジオ」に出してもらってたんだけど、それは芳村真理さんが衣装のデザイナーだったから(笑い)。

 ――「夜ヒット」で印象に残っていることは

 キャシー 布施明さんが歌を拒否したことね。和田弘とマヒナスターズの後に布施さんが歌う順番で、横で見ていたらスタッフがマヒナスターズに「モタモタしないで早くはけて」ってキツく言ってたの。それを見た布施さんの顔つきがみるみる変わって、曲が始まってるのに「先輩にあんなことをする番組で僕は歌えない」って。

 ――どうなりましたか

 キャシー 真理さんが「ごめんなさいね。みんな待ってるから気分を直して」って説得して、歌い始めました。見てた人は何があったかわからなかったと思う。

 ユカイ 昭和の歌謡界はロック側からは大きな壁に見えたけど、ロックなハートを持った人がいたり、面白い時代でしたよね。

☆ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。

☆きゃしー・なかじま 1952年2月6日生まれ。米国・ハワイ出身。3歳のころから日本に拠点を移し、69年にCMモデルとしてデビュー。歌手、テレビタレントとして活躍する。72年からパッチワークを始める。79年に俳優の勝野洋と結婚。静岡県御殿場市に移住し、87年に同市にパッチワークの教室をオープン。現在はタレントとして活動する一方、全国に6店舗のキルトスタジオを開き、後進の指導に励んでいる。