【この人の哲学:芹澤廣明(作曲家)】中森明菜、チェッカーズ、アニメ「タッチ」や「キン肉マン」「機動戦士ガンダムΖΖ」の主題歌など数多くのヒット曲を生み出し、最近は米国デビューも果たした作曲家、芹澤廣明氏(72)が登場。作曲家としてデビューし、ヒット曲を出すまで、さらに70歳にして米国でデビューするまでを語っていきます。

 ――これまで数々のヒット曲を手掛けてこられました。作曲家になるずっと前、音楽の原体験はどのようなものでしたか

 芹澤氏 FEN(極東放送網、現AFN)でかかっていた洋楽です。小学生の時から洋楽ばかり聴いてました。日本にいた米軍の兵隊さん向けに、いろんなアメリカの音楽を流していたんですよ。ポール・アンカとか、デル・シャノンとか。まだテレビはなく、レコードは高くてしょっちゅう買えるものではなかったから、情報源といえばラジオでした。

 ――小学生の時から洋楽! 印象に残っている曲はありますか

 芹澤氏 デル・シャノンの「ランナウエイ(邦題=悲しき街角、1961年)」は、びっくりしました。日本の歌とは全然違う!と、衝撃を受けましたね。

 ――61年当時の日本のヒット曲といえば、石原裕次郎・牧村旬子の「銀座の恋の物語」、美空ひばりの「ひばりのドドンパ」、坂本九の「上を向いて歩こう」などでした

 芹澤氏 その少し前から若い人の間ではカントリーが人気でしたね。「日劇ウエスタンカーニバル」(58~77年)をやってたし、小坂一也さんとか人気だったな。僕もカントリーばかり聴いてました。

 ――小坂さんは「和製エルビス・プレスリー」とも呼ばれてました。エルビスは

 芹澤氏 僕はハマらなかったんですよ。「ビー・バップ・ア・ルーラ」(56年)を歌ってたジーン・ヴィンセント&ヒズ・ブルー・キャップスの方が好きでした。ソロ歌手よりバンドですね。そのうち、ザ・ベンチャーズが日本ではやりだすんです。あれは夢中になりました。

 ――どういうきっかけで聴いたんですか

 芹澤氏 中学生の時、出会いはFENです。まずね、エレキギターの音にびっくりしたんです。なんだこの音は? 面白い音だなって。当時、エレキギターというものを知らなかったから、ギターだとは思わなかったんです。エレキを知ったのはベンチャーズがきっかけですよ。

 ――まさに日本にエレキギターが普及する過程をリアルタイムで見ていたんですね。大人気だったビートルズは

 芹澤氏 基本的にカントリーが好きだったから、ビートルズはあまり通らなかったですね。来日したころもベンチャーズ好きがたくさんいたので、そこに行って演奏してました。

 ――ところで、最初に楽器を手にしたのはいつでしたか

 芹澤氏 小学校の高学年ぐらいからギターを弾き始めて、中1の時には弾きながら歌ってました。朝昼晩、ずっとギターを弾いて、夜はギターを抱えて寝てましたよ。学生の間で「ギターがうまいやつがいる」と知られるようになって、中高校時代は早稲田大学や慶応大学のグリークラブに呼ばれ、大学生と一緒に演奏してました。おぼっちゃまみたいな人たちとね。僕はギターがうまかったけど、おぼっちゃまは下手だったから(笑い)。

 ――早熟だったんですね

 芹澤氏 16歳ぐらいで大学には行かず、プロになろうと決めてました。高校1年の時には、バンドで稼いでましたね。出演1回5000円。月に3万円とか5万円とか稼いでたかな。

 ――64年の大卒国家公務員の初任給は1万9100円でした。本格的にプロの道に進むのは

 芹澤氏 67年に「第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場して、ジャズギター部門で優勝したんです。優勝してテレビやラジオに出るうちに、あっちこっちから声がかかって演奏するようになりました。ギターで生活できるかもとのめり込んでいったんだけど、プロになったら自分よりうまい人がいっぱいいる。こりゃダメだ、となるんですね(笑い)。(続く)