【平成球界裏面史 WBC編(2)】王ジャパンの後を引き継ぐ日本代表監督の選考は難航した。平成21年(2009年)3月開催の第2回WBCで当初、日の丸を背負う指揮官は北京五輪代表監督の星野仙一氏が就任する方向で進められていた。

 ところが、これに前回大会の主力メンバーだったイチロー(マリナーズ)が「(4位に終わった)北京(五輪)の流れから(WBCを)リベンジの場ととらえている空気があるとしたら、チームが足並みをそろえることなど不可能でしょう」と異を唱え、エースを務めた松坂大輔(レッドソックス)も「(WBCを)北京五輪のリベンジの場にしてほしくない」と同調。いったん白紙に戻されたポストは巨人の原辰徳監督が兼務することになった。

 日本代表の呼称も、これを機に「サムライジャパン(後に『侍ジャパン』)として統一した。原監督が「何か違う形での名称を考えてほしい」と提案したことがきっかけだった。ちょうどこの頃、よく歴史書を愛読していた指揮官はオーダーについて上杉謙信の「車懸かりの陣」になぞらえ「全体を3つに区切って、車懸かりではないが、一の矢、二の矢、三の矢という形でいきたい」と発言。実際に大会開幕後、どこからでも得点できる超攻撃的な打線を組んで豊富な陣容を存分に生かし、従来の発想にとらわれない起用法を試みた。

 準決勝からダルビッシュ有(日本ハム)を抑えで起用したことも、その一環だ。次々と斬新なアイデアを繰り出す原監督は決勝トーナメントへ駆け上がる〝奥の手〟として、ここまで松坂、岩隈久志(楽天)とともに先発3本柱の一角を担っていたダルビッシュの配置転換プランをひそかに温めているらしい――。そんな裏情報を当時の本紙は、いち早くキャッチして報じていた。

 策士・原監督の存在はチームを上昇気流に乗せるとともに第1ラウンドA組(東京ドーム)を突破して乗り込んだ決勝トーナメントの舞台・米国でも大きな話題を呼んでいた。米スポーツ専門局「ESPN」はベンチでのパフォーマンスにも着目。同局の人気専属アナリスト、ハロルド・レイノルズ氏(元マリナーズ内野手)が〝グー・タッチ〟について「タツノリ・ハラは握りこぶしの構えと同時に目が大きくなる。あのビッグ・アイがスパークした瞬間、選手たちも勝利に向かって気持ちが乗せられていくはず。日本の実力者たちをまるで超能力のような手法でまとめ上げてしまうハラはただ者ではない」とコメント。「BIG EYE」が全米を席巻した。

 同年3月23日、ドジャースタジアムで行われた決勝戦で韓国を下した侍ジャパンは大会2連覇を達成。この大舞台でヒーローとなったのは延長10回にV打を放ったイチローだった。ここまで絶不調だった背番号51を最後まで外さずに信じ続けていたのも実は原監督。大会中、イチローが「僕に構わずバントのサインを出してください」と口にしても、原監督は頑なに「バントが必要ならサインは出す。でもオレはイチローが見たいんだ。そんなこと、お前さんは気にするな」と突っぱねていたという。

 強まった両者の絆を物語るような〝掛け合い〟も優勝祝勝会で見られた。イチローから「監督、いつもの…お願いします」と促されると、原監督が「本当にお前さんたちはね! 強い侍になった! おめでとう!」。これが号砲となり、歓喜のシャンパンファイトが始まった。

 原監督が現在に至る侍ジャパンの礎を築き上げた瞬間でもあった。