【平成球界裏面史・平成のカープ編(4)】緒方孝市監督時代の広島は、決して最初から強かったわけではない。就任1年目の平成27年(2015年)は、黒田博樹と新井貴浩が復帰したにもかかわらず、一度も優勝争いにからむことなく4位に終わった。

 この年の悪戦苦闘を予感させたのは3月27日、ヤクルトに敗れた本拠地の開幕戦である。2―2の同点だった9回一死一、二塁。菊池涼介が左前安打を打ち、石井琢朗・三塁コーチが右腕を回して二走・木村昇吾を本塁へ突っ込ませた。

 セーフならサヨナラ勝ちだったが、ヤクルトの左翼手・ミレッジが好返球して、余裕のタイミングでアウト。延長11回の末に負けると、石井は「自分のせいです」と肩を落とした。ブログにもファンとチームへの謝罪の弁をつづっている。

 しかし、実は、問題の場面では緒方もベンチから「(腕を)回せ!」と大声で指示していた。ミレッジは前年右肩を痛めており、キャンプ中は別メニュー調整。開幕戦ではシートノックにも参加していない。首脳陣にすれば根拠のある「ゴー!」だったのが、ものの見事に裏目に出た。

 これで波に乗れなかったカープは、2カード目のDeNA戦から7連敗。最大の誤算は得点力が低下していた打線である。新井はまだ代打要員という位置づけでしかなく、前年本塁打王のエルドレッドも開幕前に右ヒザ半月板の手術を受けたばかりだった。

 当初の4番は新外国人グスマンで、開幕直後にシアーホルツも加入している。が、新井宏昌打撃コーチは顔をしかめてこう指摘していた。

「グスマンが打てるのはストライクゾーンの外半分だけです。内半分を攻められると、走者がいても手を出しません。シアーホルツには左ヒジがヒッチするクセがあるので、フォームにタメのある日本人投手にタイミングを合わせにくい。だから、なかなか打率が上がらないんですよ」

 打線がそういう状態では、リスク覚悟の上で機動力を使うしかない。このころ、石井は常々、こう強調していた。

「走者を止めることは誰にでもできる。際どい場面で走る勇気を持たせるのが僕の仕事です」

 緒方が4月初旬、ドミニカ共和国のカープアカデミー出身・ロサリオを4番に抜擢。石井はこの巨漢も積極的に走らせた。

 驚かされたのは5月2日、神宮でのヤクルト戦だ。1点ビハインドの5回、先頭のロサリオが内野安打で出塁すると、すかさず二盗。梵英心の左前安打で三塁に進み、続く鈴木誠也の二飛でタッチアップし、あっという間に同点とすると、最後は逆転勝ちだ。これも、開幕戦の失敗を教訓にした石井の意識づけの賜物だったと言える。

 その2日後、本拠地の巨人戦は、石井の猛アピールでこの年初のサヨナラ勝ちを収めた。9回一死満塁からインフィールドフライの判定を見落とした巨人のミスを、石井が即座に指摘。この〝快挙〟に、球団は記念のTシャツを製作して緊急販売している。

 4位に終わったシーズン終了後、攻撃の方針をめぐって緒方と対立した新井打撃コーチが退団。代わりに守備走塁から打撃担当になった石井は緒方と話し合い、日南での秋季キャンプで猛練習を敢行した。

 朝9時からスタートして連日3~5回制の紅白戦を組み、午前中は全体練習、午後はフリー打撃、日が暮れると照明のない天福球場に工事用ライトを持ち込んで延々と夜間練習である。

「これでもまだ練習量が足りない」と言う石井を「彼は野球の鬼ですよ」と言っていたのは、現ヘッドコーチの河田雄祐。平成28年からの3連覇の土台となったのは間違いなく、前年秋の猛練習だったと思う。