【ルックバック あの出来事を再検証(2)】 スポーツ史に残るスキャンダルが勃発した。1994年リレハンメル五輪直前の1月、フィギュアスケート女子代表のナンシー・ケリガン(米国)が襲撃され、その首謀者にライバルのトーニャ・ハーディング(米国)が浮上したのだ。まるでサスペンス映画のような展開の中、2人が揃って出場した五輪は大騒動となった。連載「ルックバック」第2回は、当時を知るフィギュア関係者が、異様な雰囲気だった五輪本番の舞台裏について語った。 

 リレハンメル五輪選考会を兼ねたフィギュアの全米選手権(米デトロイト)開幕を翌日に控えた94年1月6日、前年覇者のケリガンが練習後に暴漢に襲われ、凶器で右ヒザを強打されて負傷。大会を欠場する事態となった。これだけでもビッグニュースだが、その犯行グループの一人に全米選手権で優勝したハーディングと同棲中の元夫が含まれていたのだ。

 同19日、元夫は出頭して逮捕されると、ハーディングが事件に関与したことを証言。しかし、共謀の疑いをかけられたハーディングは「事前には何も知らなかった」と首謀説を否定した。最終的に“灰色”のままハーディングは五輪出場を認められ、ケリガンもケガから復帰。かくして「疑惑の悪女」VS「悲劇のヒロイン」という因縁の構図が出来上がり、驚異の全米視聴率49・1%を記録した伝説の五輪が幕を開けたのだ。

 この大会でフィギュア日本代表の監督を務めた元国際審判員の杉田秀男氏(86)は「とにかく異常な状況だった」と振り返る。「米国チームは二手に分かれ、2人を会場で接触させないように左右別の出入り口を使用させていました。まるで腫れ物に触るように全員が神経をすり減らし、ピリピリでした」。公式練習で同じリンクに立った2人は、一度も視線を合わせなかったという。

 リレハンメル五輪日本代表で5位に入賞し、現在、デトロイトでコーチ業を行う佐藤有香さん(47)は、会場入りした瞬間にただならぬ雰囲気を察したという。「練習会場の席が全てカメラマンで埋まっていて、ナンシーとトーニャが動くたびに望遠レンズが向けられ、シャッターが鳴りっぱなしでした」

 事の発端が襲撃事件とあってセキュリティーも最高レベル。「控室の外壁には映画で見るようなマッチョなボディーガードやSPが何十人も張り付き、手を後ろに組んで目玉だけギロッと動かして見張っている。あの奇妙な光景は今も鮮明に覚えています」と佐藤さんは振り返る。

 異様な状況下で迎えた因縁の対決。同2月23日のテクニカルプログラム(現ショートプログラム)で首位発進のケリガンに対し、ハーディングは10位。巻き返しを図ったフリー(同25日)で、またも事件が勃発した。名前がコールされたものの、ハーディングは姿を見せない。2分経過すると失格となるため場内は騒然。残り10秒でようやくリンクに現れたが、最初のジャンプが失敗すると突然、泣きだして演技を中断してしまった。リンクサイドのレフェリー席へ向かい、フェンスに右足を上げて「直前の練習中に切れたヒモを急いで替えたけど、短すぎて演技できない」と泣き顔で猛アピール。いまや語り草となった衝撃シーンを、本紙は翌日の1面で「前代未聞、ハーディング松田聖子流の涙」と大々的に報じた。

 国際スケート連盟の規則で練習中に靴ヒモが切れるアクシデントは「競技者の衣服や器具の予期せぬ破損」とみなされるため、ハーディングは第3グループ最終滑走(18番目)で再演技。だが、生命線のトリプルアクセルを失敗して総合8位で大会を終えた。一方のケリガンは銀メダルを獲得し“勧善懲悪”の結末となった。

 しかし、騒動の裏にはもう一つのドラマもあった。ハーディングの2つ後の滑走者だった佐藤さんは会場が騒然とする中、杉田氏、父・佐藤信夫コーチから「演技開始の時刻は変わらないから大丈夫」となだめられ、控室で集中力を高めていた。他の選手は出番が変更することを想定してバタバタ。一番の被害者は次の滑走者、ジョゼ・シュイナール(カナダ)だった。「かなり焦った様子で、泣きながらリンクに出て行ったのを覚えています」(佐藤さん)、「精神的に参っていて本当にかわいそうでした」(杉田氏)。本番で涙を流したのはハーディングだけではなかったのだ。

 さらに騒動の真っ最中に最終グループのケリガンが会場入り。控室に入ると「また何かやっているわ。今度は何なの?」と皮肉たっぷりに言い放ったという。ケリガンがブツブツと口走る光景を、佐藤さんはぼうぜんと眺めていた。

 杉田氏は「ケリガンもハーディングに負けず、とても気が強い女性」と証言する。大会後、パレードに参加したケリガンは金メダルを獲得できなかった悔しさから「なぜ私がこんなことをしなきゃいけないの?」と吐き捨て、マイクに拾われてしまったエピソードも残されている。

 後年、2人はテレビ番組で共演し、一応の和解を果たしている。しかし騒動の最初から最後までケリガンは気持ちで一歩も引かなかった。世を翻弄し続けた悪女ハーディング。その陰で、悲劇のヒロインにも譲れぬプライドがあった。

【その後のハーディング】ハーディングは五輪後の94年3月16日、検察当局との司法取引に応じ、襲撃の後に事実を知りながら通報しなかった罪を認めて罰金10万ドル(約1030万円)などを受け入れる代わりに懲役刑を逃れた。検察側はハーディングが直接襲撃に関与した決定的な物証を得られず、真相は闇に消えた。

 その後、ハーディングは格闘家に転向。全日本女子プロレスが1試合2億円で獲得に乗り出したものの交渉不成立。2000年には恋人への暴行容疑で逮捕、03年2月にはプロボクサーデビュー(判定負け)と“お騒がせ”は続いた。一連の事件は「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」(米17年公開)で映画化されている。