【猪木に挑んだモンスター】格闘技世界ヘビー級王者アントニオ猪木と極真会館出身の空手家ウィリー・ウィリアムスが1980年2月27日、東京・蔵前国技館で激突した。

 ウィリーは、梶原一騎が製作に携わったドキュメンタリー映画「地上最強のカラテPART2」(76年12月公開)で巨大なクマと対決し「熊殺し」の異名を取る。実際に殺してはいないが、インパクト十分だった。

 その前年(75年)には「第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会」の開催を発表した極真会館が、「週刊少年マガジン」誌上で「どんな格闘技の挑戦も受ける」と宣言。これに「プロレスこそ最強」をうたう新日本プロレスがかみついた。

 そんな背景もあり、ウィリーと猪木が「最強」の称号をかけて激突することを望むファンは少なくなかった。また78年から「週刊少年マガジン」で連載が始まった、やはり梶原原作の「四角いジャングル」でもウィリーの存在は大きくクローズアップされ、頂上対決への期待はますます高まった。

 極真会館の大山倍達館長が「他流試合は禁止」と宣言したため、ウィリーはいったん破門される形で猪木戦にこぎつける。それでも、極真空手VS新日本プロレスの代理戦争に違いはない。双方に大勢のセコンドがつき、試合前から異様なムードだ。試合形式は3分15R、決着方法はKO(10カウント)、リングアウト(15カウント)、レフェリー(ドクター)ストップとされた。

 2Rに両者リングアウトとなるが、立会人の梶原が試合続行を宣言。迎えた4R、興奮したセコンド同士が小競り合いを繰り返す中、猪木が場外で腕ひしぎ十字固めを決めた状態のままゴング。猪木は肋骨にヒビが入り、ウィリーは右ヒジを痛め、両者ドクターストップの痛み分けとなった。

 本紙は「両軍セコンドが乱入してもみ合い、乱闘のなかで『猪木はセコンドにやられた』(猪木のセコンドの話)ようだ」とウィリーのセコンドの攻撃で肋骨を痛めたことを示唆。猪木とウィリーは死力を尽くしたとしつつ「それを消化不良にしたのは再三再四のセコンドの試合介入。乱入を許したレフェリーを含めた『試合管理者』の責任だろう」と断じた。

 猪木は試合後「試合前、怖いというよりイヤな気持ちが先に走った」と振り返ると、再戦については「一応、今回で格闘技戦は終わったと自分では思っている」と明言。後味の悪さが残ったとはいえ、約10か月後にIWGP構想を打ち出す猪木にとっては区切りの大一番だった。(敬称略)