【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た!:エディ藩編】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(59)が、ゲストを招いて昭和の日本に巻き起こったロックムーブメントをひもとく。ゲストは伝説のバンド「ザ・ゴールデン・カップス」のギタリストとして活躍したエディ藩(73)。実はカップスに海外デビューの話があった!? 

 ユカイ デイヴ平尾さんとエディさんが組んだバンドがここ、ゴールデンカップのステージに立つようになったのが1966年12月。翌年6月にもうデビューしてます。すぐスカウトされたんですね。

 エディ スパイダースがここへ見に来た時、田辺昭知さんから「明日、良かったらつきあってくれ」って声をかけられてね。翌日、フジテレビに行ったら、スパイダースが出演した「ザ・ヒットパレード」をやっててさ。

 ユカイ ミッキー・カーチスさん司会の。

 エディ そう。見終わったら田辺さんが「こういうふうになりたくないか? 俺のプロダクションに入らないか」って。そりゃなりたいって言うよね、誰でも(笑い)。誘い方がうまいんだよ。平尾と相談して「田辺さんのところ、いいかも。どうしようか」って話してた。

 ユカイ なるほど、それでデビューへ気持ちが固まっていったわけですね。同時期に黛ジュンさんからも声をかけられていたんですよね。

 エディ 黛さんと一緒に来た東和企画の中尾さんから誘われてさ。しつこかった(笑い)。結局、(※~~~で)黛さんの方に行った。

 ――※今回はその理由は伏せました。

 ユカイ カップスは、ライブで1部はヒット曲、2部は自分たちが好きな英米のカバー曲と分けたり、英語曲にこだわってましたよね。レコード会社が用意した歌謡曲っぽいシングルに抵抗はなかったんですか?

 エディ だんだんわかるようになってきてさ。というのは、井上尭之さん(当時は孝之、スパイダース)に「こういう世界は売れてなんぼ。ヒット曲は大事だよ。いいもん食いたいだろ。毎日何食ってる? 売れりゃステーキ弁当だって毎日食えるんだよ」って言われてね。尭之さんに言われたら聞くよ。きちっとしてたし、やってることに間違いがなかったから。それで妥協し始めた(笑い)。

 ユカイ 3枚目のシングル「長い髪の少女」(68年4月)がヒットした時はどう思いました?

 エディ あの曲、最初は裏面だったんだよ。表面は「巨人の星」に使われた…。

 ユカイ ♪アイラブアイラブ~。挿入歌として使われた「クールな恋」が表だったんですか。

 ――2004~13年に放送していた「中井正広のブラックバラエティ」でも使われてました

 エディ 最初の2枚があまり売れず、ディレクターから「次売れなきゃアウトだぞ」って脅されてさ。3枚目を決める会議で「巨人の星」のが押されて、「これで行こう!」って。その裏面予定だったのが「長い髪――」。俺は直感でこっちの方がいいと思ったんだよ。哀愁があるし、インパクトもある。それでみんなで言ってひっくり返してね。発売から2週間したらパッと売れだした。ただ、イントロの12弦は弾きたくなかったから、あれはスタジオミュージシャンが弾いてる。

 ユカイ なんでですか?

 エディ アイドル曲みたいなの嫌だって。わがままだったから(笑い)。その後のライブでは弾いたけどさ。

 ユカイ 英語曲にこだわったのは、海外でやりたいという気持ちがあったからですか?

 エディ そうだよ。実は向こうからそういう話が来たことがあったんだ。ただ、一部のメンバーを変えてくれと言われてさ。気分がいい話じゃないから、誰とは言わないけどね。そんな面倒なこと言うならやめようって。

 ユカイ 海外でも認められてたんですね。

 エディ ブッチ(ケネス伊東)が歌った曲はイギリスでも人気になってたね。90年代にカップスと同じように「ヘイ・ジョー」を演奏してたアメリカのバンドもあった。

 ユカイ ここで米兵の客をどんどん増やしてたんだし、海外でも人気出た可能性ありましたね。

 ☆エディ・バン 1947年6月22日生まれ。神奈川県横浜市出身。デイヴ平尾らとザ・ゴールデン・カップスを結成し、67年に「いとしのジザベル」でデビュー。グループ名は出演していたライブハウス・ゴールデンカップから。脱退、復帰を経て同グループは72年1月に解散。以後はソロで活躍。作曲した「横浜ホンキー・トンク・ブルース」は数々の歌手、俳優に歌われている。

 ☆ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。