市川中車(香川照之、55)が7月の歌舞伎座の第一部で「あんまと泥棒」「蜘蛛の絲宿直噺」に出演している。

市川猿翁(3代目猿之助)の長男で、ドラマ、映画で活躍していた香川が「9代目市川中車」を襲名して歌舞伎俳優への仲間入りを果たしたのが12年6月だった。46歳の「新参者」としての挑戦だったが、それから9年、すっかり「中車」として歌舞伎界になくてはならない存在になっている。

「あんまと泥棒」はもともとラジオドラマとして放送され、その後、歌舞伎でも上演されるようになった作品。中車が抜け目のないあんま秀の市を演じるのは、今回で4回目となる。

歌舞伎の初舞台になった「小栗栖の長兵衛」を見ているけれど、初心者マークで恐る恐るの運転さながらの緊張感漂う姿に、あの演技派の香川でも「こんなにがちがちになるのか」と思った記憶がある。それから10年目に入った今、「あんまと泥棒」は4回目とあって、すっかり手の内に入って安定感があって、やりすぎとも思えるコミカルなしぐさ、演技に何度も笑った。

思えば、歌舞伎俳優となった直後の13年にドラマ「半沢直樹」に敵役の大和田常務役で出演し、堺雅人演じる半沢との迫力ある対決や土下座シーンなどで話題を呼んだけれど、これも歌舞伎の世界に入ったからこそ、生まれた演技だったろう。誇張された過剰なほどの演技は、歌舞伎俳優の専売特許でもある。映像と違い、大劇場の歌舞伎では舞台と遠い2階、3階の観客まで伝わる演技を求められる。その歌舞伎体験が、融通無碍(むげ)なアドリブ的な演技として花開いたのだろう。

中車は歌舞伎デビュー直後に「おれは生きていると初めて思った」と話していたけれど、今回の公演前の取材会でも「その実感は9年たった今でも変わっていない。今の僕にとっては形に残る映像作品よりも、日々消えていく歌舞伎の舞台の方が生きているという実感がある」と述懐している。

5、6年前から昆虫好きをカミングアウトし、昆虫の着ぐるみ姿で昆虫紹介番組に登場するだけでなく、2年前には昆虫をデザインしたアパレルブランドを立ち上げた。10月からはTBSの朝の情報番組で金曜のメインキャスター(月~木曜は安住紳一郎アナ)に決まっている。仕事の多様な広がりを見ても、46歳の遅い挑戦に間違いはなかった。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)