どんな競技でも「兄弟選手」は多い。プロレス界も古くはシャープ兄弟から、ドリーとテリーのザ・ファンクス、ミル・マスカラスとドス・カラスなど数えきれないほどの名コンビが存在した。

 ところでココバットを武器に日本でも大旋風を巻き起こした“黒い魔神”ことボボ・ブラジルに13歳も年が離れた異母弟がいたことはあまり知られていない。名前はハンス・ジェームス。1970年1月に兄と日本プロレスへ初来日。ジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナルタッグ王座に初挑戦(1月5日大阪)した。

 日本到着時に「ブラジルは怪気炎を上げ『ハンスは俺が今回のタイトルマッチのため呼んだ。理由は試合後に分かる』と笑った。ジェームスはブラジルより大きい196センチ。目はうつろで麻薬患者のように定まらず、妖気とニヒルな狂気を感じさせる。ブラジルの命令なら、顔色ひとつ入れず“殺し”をやってのけるのではないか」と報じている。それはちょっと言い過ぎだろう。

 だが不思議なことに、肝心の「弟」であることには触れていない。当時のブラジルはトップ中のトップ。一方のジェームスは33歳でキャリアも浅かった。試合をして実力がないと判明すれば、ブラジルのキャリアに傷がつくと当時の日プロが判断したのだろうか…。

 王座戦の結果はハンスが馬場、猪木にフォールを奪われて0―2のストレート負け。ブラジルは怒りまくって、あまりにだらしないジェームスに制裁を加えて大の字にさせている。加えて吉村道明の戦評は手厳しい。

「ブラジルは確かに超一流の強豪だが、ジェームスがあまりに弱すぎた。これはブラジルの大誤算。技術以前の敗因があったと見るべきだろう。タッグ戦術の巧拙、パートナーの差が2―0という差になって現れた」  

 この実力では「ブラジルの弟」と公言するにはやはり問題があったのだろう。ジェームスは大した活躍はないまま、ひっそりと帰国した。兄が偉大過ぎる弟はつらいよ…。

 2人はその後、全日本プロレス73年8月シリーズに来日、この時も人の目を避ける不倫カップルのように「兄弟」であることを公表しないままだった。だが2年後の75年5月の「ブラック・パワーズ」に参戦。何と本紙はプロレス面トップで「息つけぬ馬場。今度はブラジルが兄弟で来日」と何事もなかったようにデカデカと報じたのだ。この際はなぜかハンスからハンクを名乗っている。

 記事では「昭和45年1月、日本プロレスの新春シリーズにプロバスケットからジェームスを連れてきた際、あまりの不甲斐なさに怒ったブラジルが万座の中で殴打した事件を思い出す。あれから5年、成長したジェームスは発奮。兄の名声に甘えていたことに気がつき、テキサス州のファンク道場へ乗り込み、ドリー・ファンク・ジュニアに徹底的に叩き直された。今では兄と並ぶデトロイトのメインイベンター。血は水より濃い。恐るべきブラックパワーズである」

 本当だろうか…。手のひらを翻したような論評はにわかに信じられないが、ブラジル以外、外国人選手が精彩を欠いたため、苦肉の策が取られたと思われる。

 兄弟は5月17日東京体育館で馬場、ジャンボ鶴田のインターナショナルタッグ選手権に挑戦。ジェームスは確かにラフファイトなどで成長を見せたが、1対1から最後は鶴田のダイビングニーに沈んで汚名返上はならなかった。結局ジェームスはこれが最後の来日となり、正々堂々ブラジルの弟と名乗ったのは最初で最後となった。王道マットではめずらしい“怪事件”だった。 (敬称略)