「タネモシカケモ、チョトアルヨ」で有名なコミックマジックの第一人者・ゼンジー北京(81)が、このほど「第24回上方演芸の殿堂入り」名人を受賞した。奇術(マジック)をポピュラーな形に変えたことが高く評価されたもので、手品師の受賞は初の快挙だという。そんな北京に半世紀を超える手品師人生を振り返ってもらった。


【ゼンジー北京・インタビュー前編】

 ――殿堂入りおめでとうございます

 北京 ありがとうございます。関西ではあんまりマジックやってる人も少ないし、あんまりピンとけーへんとこもあるけどね。

 ――手品師を目指したのは

 北京 もともと高校生のころから趣味でやっててましてね。そのころから師匠のゼンジー中村に教えてもらって付いて回ったりしてたので知識はありました。高校卒業してから「カバン持ちさせてください」と正式に弟子入りしたんです。

 ――師匠はどんな人

 北京 ハンカチからハト出したりとかを、関西で一番早くやってた人でした。斬新なマジックや、たまにイリュージョンとか大ネタもやったりしてました。

 ――どんな弟子時代

 北京 当時の仕事場はキャバレーとかでね。タキシードを着てバンドさんが後ろで演奏してくれる中でマジックをするんやけど、1年ほどして僕も行かせてもらうようになった。また1年半ほどたって独り立ちすることになったんですけど、他の人と同じようなことをしてたら勝てない、何か変わったことをしないといけないと思いましてね。当時はしゃべりながらマジックする人がいなかったから、一回やってみたんです。

 ――反応は

 北京 最初は半分音楽、半分おしゃべりでやってみた。しゃべってやるのが面白いから、だんだん女の子やお客さんが見てくれるようになったんです。普通、マジックを見にキャバレーには来んからね。ありがたかったですよ。

 ――おしゃべり好きだった

 北京 それがおしゃべりはうまい方やないから、なんか特徴のあるしゃべりをせんとウケへんなと。当時の事務所が心斎橋にあったんですけど、隣の中華料理屋の大将が結構なまりのあるしゃべりをする人でね。それに慣れてたんで、中国服を着てカタコト言ってみたらシュッと出た。これはイケるんやないかと思った。それからは音も使わずに、おしゃべりだけでマジックをするようになったんです。

 ――東京コミックショウ(注・「レッドスネーク、カモーン!」と3つのつぼからヘビのぬいぐるみを登場させる芸で人気を博した)と間違われることも

 北京 間違われましたね。マギー司郎とかも出てきましたけど、しゃべって手品する人が少なかったですからね。

 ――手品しながらしゃべるのは集中できなそうだが

 北京 みんな難しいというが、僕は感じないです。小難しいこともしないしね(笑い)。スライハンド(手先の技術で行うマジック)とか、不思議さを見せるものはほとんど使いませんでしたから。失敗しても逆手に取って堂々としてましたし、家庭にある品物でやるのも、お客さんに親しみを持ってもらえて良かったかもしれない。


 ☆ぜんじー・ぺきん 本名・渡辺重信。1940年1月3日生まれ。広島県呉市出身。高校卒業後にゼンジー中村に弟子入りし、63年独立。84年、念願の北京公演を開催。第13回上方お笑い大賞金賞受賞。2004年、大阪市民表彰文化部門受賞。21年、第24回上方演芸の殿堂入り名人に選定される。カタコトの日本語が注目されがちだが、技術に裏打ちされたマジックは幅広い世代に支持されている。