「タネモシカケモ、チョトアルヨ」で有名なコミックマジックの第一人者・ゼンジー北京(81)が、このほど「第24回上方演芸の殿堂入り」名人を受賞した。奇術(マジック)をポピュラーな形に変えたことが高く評価されたもので、手品師の受賞は初の快挙だという。そんな北京に半世紀を超える手品師人生を振り返ってもらった。
【ゼンジー北京・インタビュー後編】
――若くして売れっ子になった
北京 21~22歳のころですね。テレビも取り上げてくれるようになって、いろんなネタも作らないといけないから苦労はしました。舞台でも他の芸人さんが爆笑取ってるのに負けたくないから、マジックはもちろん、おしゃべりやギャグも必死で勉強しました。
――仕事場も広がった
北京 当時の道頓堀角座で手見せさせてくれた。お客さんもよーわろてくれてね。舞台に出していただけることになった。お客さんがしゃべってることを「ちょっとコソコソするヨ」「ちょっとくらい見えても辛抱する」と取り上げて、それが全部ギャグになっていった。
――他ジャンルの芸人とも親しくなった
北京 当時有名だった(若井)はんじ・けんじさん(ともに故人)とか(上方)柳次・柳太さんとか。同じ世代では(若井)ぼん・はやと(故人)とか一緒に飲みに行ったりしてました。僕、キャバレーとかでも稼げてましたから、漫才師さんほどお金の苦労もなかった。(6代目笑福亭)松鶴さん(故人)にもかわいがってもらった。夜はよう連れてってもらいました。
――松鶴さんは豪快なエピソードも多い
北京「北京ちゃん、中国服6着ほど余ってないか」と言われてね。持って行ったら、仲間にも着せて今里新地に遊びに行く。みんなにじろじろ見られるし、声で師匠やってバレてるから何の変装にもなってない。面白い人でした。落語家では先代の(桂)春蝶(故人)も飲み友達でしたな。
――酒の交友が多い
北京(元横綱の故)北の湖さんとクラブで一緒に飲んだときは、死ぬかと思いましたけどね。ブランデーのボトル1本を鉢みたいなグラス(ワインクーラー)に入れてね。もともと前の店で紹興酒飲んで酔うてるから、ほんまに死ぬかと思った。1杯だけは飲みましたけど。
――手品は世界でも披露した
北京 花王名人劇場で中国にも行きました。(他の番組で)ラスベガスでもやらせてもらいました。その時は娘に英語でギャグも教わってやったらウケました。
――2007年に心筋梗塞で生死の境をさまよった
北京 67歳の時で、心筋梗塞で倒れてね。家で倒れて三日三晩意識戻らんで、女房は「今晩戻らんかったあきらめて」と引導も渡されてたらしいんやけど、意識が戻った。それまでムチャしてましたからね。それからは節制して毎朝4時には起きて6時から歩いてます。
――弟子を育てるのは
北京 もうないですね。連れて歩いて雰囲気を覚えるのが大事やと思いますからね。昔みたいな仕事も少ないし難しい。誰かが違う雰囲気で引き継いで作ってくれたらうれしいけどね。もう出てこんでしょうね。
――今後は
北京 自然の成り行きに任せて、長生きできたらええなと思ってるだけですね。
☆ぜんじー・ぺきん 本名・渡辺重信。1940年1月3日生まれ。広島県呉市出身。高校卒業後にゼンジー中村に弟子入りし、63年独立。84年、念願の北京公演を開催。第13回上方お笑い大賞金賞受賞。2004年、大阪市民表彰文化部門受賞。21年、第24回上方演芸の殿堂入り名人に選定される。カタコトの日本語が注目されがちだが、技術に裏打ちされたマジックは幅広い世代に支持されている。