コメディアン、ぜんじろう(53)が20日に東京・下北沢の小劇場・楽園で開催される公演「スタンダップコメディGO! Vol.2」(午後6時30分開演)に出演する。他に清水宏(55)、ラサール石井(66)、インコさん(45)が出演する。90年代前半に「平成の明石家さんま」としてブレークした、ぜんじろう。スタンダップコメディーの旗手となるまでの歩みを聞いた。

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若者の人気を取り戻すために、関西テレビ「島田紳助の人間マンダラ」のMC島田紳助に呼ばれた。人気を盛り返すことはできなかったが、島田紳助という芸人をじっくりと知ることができた。

「紳助さんの私生活からマジマジ見せてもらいました。あの人のすごさというは『人間マンダラ』が終わってから、東京で花咲きます。大阪で、いろいろ試してました。それのうまいこと火が付いたのは、若い人を取り入れたのがでかかった。自分がちょっと引いて、若い人を前に出すっていうのが、大阪でちょっと当たった。そして、東京の全国区で“おバカブーム”を作ったんです」

紳助の魅力は演者としてだけでなく、プロデューサーとして大きなものがあった。ぜんじろうは、それを間近で見ていた。

「紳助さん、あの人はプロデュースから何から、全部自分でやるんです。一緒に行動していても、飯作るのも全部自分でやるんです。掃除も自分でやります。全部、自分でしますから、こっちはすることないんです。というか、バカでいたほうがいいんです。天然でいた方が。紳助さんのプロデュース力は、東京では最初のころは発揮できなかった。それが東京でもやれるポジションになって、組織も使って、いろんなものを使って、やっぱり成功しましたね。辞めるときも早かったのは、頭いいなと思いましたね。それまでも言ってはりましたから、ずっと『長いことやるもんじゃない』と。そこは執着していなかった」

紳助がプロデューサーとして成功への地固めをしていくのを見ていた。一方で、ぜんじろう自身は再進出した東京で行き詰まりを感じていた。そして海外に目を向けた。

「それしか選択肢がなかった。食っていくためには、大阪に帰れないし、東京でもないし、選択肢がそれしかない。あと、ちょっとした夢もありました。(立川)談志師匠や、入門した上岡龍太郎にスタンダップコメディーのことを聞いてたんでね。あの方々は、まだ1ドルが360円の時に海外に行ってたりしていた。僕の時は円高で1ドルが80円の時代ですけど、誰も海外に行っていなかった。あの当時、インテリの人は『モンティパイソン』(英国の風刺コメディーグループ)のことを面白いよって言ってるけど、行ってもないのに分からへんやろと思って。僕はお金もできたし、時間もできちゃったから、これはチャンスやと。じゃ、本当に見てみようと思ってというのがあった」

(続く)。

◆ぜんじろう 1968年(昭43)1月30日、兵庫県姫路市生まれ。大阪芸大芸術学部デザイン学科中退。87年、上岡龍太郎に入門、吉本興業に所属。88年月亭かなめとの漫才コンビ、かなめ・ぜんじろう結成。同年、今宮子供えびすマンザイ新人コンクールで福笑い大賞。89年(平元)、ABCお笑いグランプリで最優秀新人賞、上方漫才大賞新人奨励賞も、解散してピン芸人に。92年、毎日放送「テレビのツボ」司会でブレーク。95年「超天才・たけしの元気が出るテレビ!!」。98年渡米。01年帰国。170センチ、57キロ