【フィギュアスケート全日本選手権・回顧録5】(2016年12月22~25日、大阪・東和薬品RACTABドーム)

 満開の桜より散り際が美しく感じるのはなぜだろうか。恐らく人は、消えゆく寸前にその価値を再認識するからだろう。現役最後の氷上に立った浅田真央には、そんなはかない美しさがあった。

 真央にとって14回目の全日本。伝説の14年ソチ五輪から1年間の休眠を経て、前年から復帰した。しかし、フィギュアスケーターとして若くはない26歳。全盛期を過ぎている事実は、残酷なほどジャンプに現れていた。11月のフランス杯はグランプリ(GP)シリーズ自己ワーストの9位。「一度は心が折れた」と漏らし、左ヒザ痛にも悩まされた。それでも真央は今大会に懸けていた。封印してきたトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を跳ぶ――。自らの〝分身〟でもあるジャンプを、日本のファンの前で成功させたい一心だった。

 現実は甘くなかった。ショートプログラム(SP)では冒頭で挑んだが、1回転半で0点。8位という結果となったが、表情は充実していた。失敗した事実より、挑戦した自分に満足感を覚えたという。翌日のフリーでも冒頭でチャレンジ。「何があっても回ろうと思った」。言葉とは裏腹に転倒したが、観客からは成功時と同じような大歓声と拍手が沸き起こった。4分間の演技を終えると、悔しさとすがすがしさが入り交じった表情で観客にあいさつ。合計174・42点の12位。小学6年、12歳で初めて出場して以来ワーストの順位となった。この時、真央は「ああ…もういいんじゃないかな」と悟ったことを後日、明かしている。

 シニアデビューした15歳のころはスケートが楽しくて仕方がなかった。天使のように銀盤と跳びはね、自然と笑顔がはじけた。しかし、晩年は目に苦悩が宿った。皮肉なことに実績を積むごとに自信を失っていった。

 昨年、真央は「若い時は何も知らない強みがあった。どんどんスケートが怖くなっていった」と吐露。そして、今の若い世代へ「怖さを知らない分、できてしまうことがある。だからチャレンジしてほしい」とメッセージを送った。

 散り際に見せた覚悟とプライド。そんな真央の美学が、あの年の全日本に刻まれている。