驚異のメンタルだ。フィギュアスケートの全日本女王・紀平梨花(19=トヨタ自動車)が22日に北京五輪代表最終選考会を兼ねる全日本選手権(さいたまスーパーアリーナ)の欠場を決断。ギリギリまでケガの回復を待ったが奇跡は起こらず、幼少期から夢に見た五輪出場は消滅した。しかし、ファンや関係者の心配をよそに本人は至ってポジティブ。落ち込むどころか、すでに4年後を見据えている。

 いちるの望みはかなわなかった。紀平は今季初めに「右足関節骨軟骨損傷」のケガを負い、グランプリ(GP)シリーズのスケートカナダ(10月)とNHK杯(11月)を欠場。北京五輪代表には全日本出場が必須だったが、故障箇所は完治せず極めて厳しい状況に陥っていた。

 それでも本人は諦めず、1%の可能性にかけて開会式の22日まで決断を引き延ばしたが、同日正午に断念。スケート連盟を通じて「今は治療に専念することに致します。この様な状況の中、皆様の温かいメッセージは心の支えになっています」と正式に欠場を発表した。ファンからは「胸が張り裂けそう」「かわいそ過ぎる」と悲痛な声が上ったのは、紀平が全てを犠牲にして「五輪」を目指してきたことを知っているからだ。

 2018年平昌五輪は15歳の誕生日までわずか21日足りずに出場できす。当時の心境を「見ていて本当にうらやましかった。自分の4年後の姿を思い浮かべていた」と明かしている。年齢規程は分かっていたため、開催地が北京に決まる前から「2022年」が目標だった。小学校の文集には「夢に向かって」と題して「必ず、オリンピックで優勝」と書いた。上ヶ原中学校(兵庫・西宮市)で学年主任を務めた中村吉次郎教諭は「ただただオリンピックに出る夢を追いかけていました」と回想している。

 16歳のシニアデビューはGPファイナル初出場で初制覇。その後は全日本も2度制し、待望の4回転ジャンプも成功させた。ようやく目の前に夢舞台が訪れたと思ったら、まさかの悪夢…。これまでの経緯を考えると、並の人間なら立ち直れないだろう。しかし、紀平は違った。関係者によると、欠場を決めた夜にはすでに気持ちを切り替え、前を向いているという。実際に周囲でも、紀平の涙を見た人はいない。泣くヒマがあるなら次に進む。自分との約束を果たすため、4年後の夢に向かって歩き出しているのだ。

 26年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪は23歳で迎える。くしくも紀平が「初めて五輪を意識した」という、14年ソチ五輪で見た浅田真央と同じ年齢だ。大願成就へ向けて、紀平の新たな挑戦はすでに始まっている。