馬場はミラノを32文ロケット砲で吹き飛ばした
馬場はミラノを32文ロケット砲で吹き飛ばした

 新日本プロレスとノアの対抗戦(来年1月8日、横浜アリーナ)は早くも追加席が販売されるなど、注目度は増す一方となっている。カードについての意見は各選手様々だが、蝶野正洋は2002年の東京ドーム大会の三沢光晴戦を振り返り「あの時、三沢社長が手を差し伸べてくれなかったら新日本は潰れていた」と語る。ノアの“プロレスリングマスター”こと武藤敬司は「今は昭和じゃねえんだ。見てる人がハッピーになるものがいいと思う」と提言している。

 新日本時代にUWFインターとの殺伐とした対抗戦をくぐり抜けてきた武藤らしい言葉だが、実は昭和の時代にも「友好的な交流戦」が存在した。1972年11月の全日本プロレス、ジャイアント馬場の国際プロレス初参戦である。馬場は同年10月に全日本を旗揚げ。当時はまだ古巣の日本プロレスが存在し、ライバル・アントニオ猪木の新日本プロレスも3月に旗揚げしたばかりだった。当然、スタート直後とあって全日本も陣営が固まっていない。国際プロレス・吉原功社長と友好関係にあった馬場は、集客難とテレビ枠縮小で苦境に立たされた国際を救うべく11月29日東京都体育館、30日茨城・水戸大会に初参戦した。

 29日のメーンはWWA世界タッグ王者のクラッシャー・リソワスキー、ディック・ザ・ブルーザー組対ストロング小林、マイティ井上組の王座戦に譲ったものの、馬場はグレート草津と組んでレッド・バスチェン、マリオ・ミラノ組と対戦。好連係を見せ、2―1で快勝している。試合後、馬場は本紙に国際初登場の感想を語っている。

「お客さんのムードがよかった。今回だけでなくこの友好ムードはどこまでも保っていきたい。私はどこの団体でもいいし、それがマット界のためになると思う。(国際は)いわゆる複数のエースがいて、プラスマイナスの面があるかもしれないがレスラーの層は厚いね。(小林、草津らエース級の全日本参戦は)そうなるムードになればいいが、今はムリだと思います。もしやれたら理想的ですがね」

 常に挑発的だった猪木への態度とは、全く異なる友好的な言葉が印象的だ。馬場にしてみれば旗揚げしたばかりの全日本に国内での“味方”が欲しかったのも事実だろう。

 翌30日にはマリオ・ミラノに2―0でストレート勝ち。本紙は「まだ若い(旗揚げ6年目の)国際プロレスに入ると、馬場は一段と大きく頼もしく見える。やはり貫禄の差だ」と記している。

 その後も両団体の友好関係は続き、74年にエース小林が退団し、同年、TBSに放送をいったん打ち切られた窮地にも、国際・全日本提携記念シリーズが開催され、馬場、高千穂明久、サムソン・クツワダ、大熊元司が参戦した。

 逆に75年12月に全日本が「オープン選手権」を開催した際は、国際が草津、井上、ラッシャー木村のエース級を派遣して大会を大いに盛り上げた。その後、交流戦は対抗戦に形を変えるも、友好関係は70年代終盤まで続いた。その間、73年4月に日プロが崩壊するも、全日本と新日本との交流は一切なかった。

 3団体がようやく一堂に会するのは、東京スポーツ新聞社主催79年8月26日「プロレス夢のオールスター戦」(日本武道館)の開催を待たなければならなかった。猪木新日本の過激な仕掛けは昭和のプロレスの発展に絶対必要だったが、逆にもめ事が嫌いな馬場とは微妙なバランスがとれていた。2000年代からの友好的な「交流戦」の流れを考えると、馬場には先見の明があったかもしれない。(敬称略)