【プロレス蔵出し写真館】東スポで「日本マットマル秘事件簿」を連載していたプロレスライター・小佐野景浩君が昨年12月に著した540ページにも及ぶ大作「至高の三冠王者 三沢光晴―さりげなく命懸けという生きざま」(ワニブックス、1800円+税)が好評だ。

「どんな状況でも、たとえ大きなケガを抱えていても弱音を吐かず、愚痴も言わず、自然体で、さりげなく命懸けのプロレスをやっていた三沢光晴のプロレスラーとしての、人間としての強さを描きたかった」。書き下ろした意図をそう語った。

〝受けの天才〟と言われた三沢だが、全日本プロレスのころから常にケガとも戦っていた。

 2代目タイガーマスク時代にはヒザの故障に悩まされ手術を決断。89年(平成元年)4月に受けた左足全十字靭帯断裂の手術は、溶解した靭帯に大腿部の靭帯を移植、菅でつなぎ合わせてボルトで固定するという6時間にも及ぶものだった。

 5月26日、入院先の東京・世田谷区大蔵の関東中央病院で真由美夫人、愛娘の楓ちゃんを伴ってマスコミ対応した三沢は、痛みから解放されたからか晴れやかな笑顔だった。しかし、翌年1月2日に復帰を果たすまで長期欠場を強いられた。

「超世代軍」としてジャンボ鶴田と世代抗争を展開していた91年。10月14日に大阪で行われた6人タッグで鶴田とエルボーの相打ち。鼻血が噴き出し、試合後、病院でレントゲンを撮ると鼻を横から見て右斜めに亀裂が入っていた。鼻骨骨折だった。

 翌15日、後楽園大会に鼻にテープを貼り強行出場したが、さらに悪化させて戦闘不能に陥り、翌日から欠場に追い込まれた。

 初優勝を目指していた95年のチャンピオン・カーニバルでも、あわや2年連続で途中欠場の危機を迎えた。

 4月6日、岡山大会で行われた公式リーグ戦を全勝同士で川田利明と激突。川田のジャンピングハイキックを顔面に食らい、崩れるようにコーナーに座り込んで左目を押さえた。

 あっという間に上下のまぶたが腫れ上がった。それでも左目が潰れたまま30分戦い抜きフルタイムドロー。すぐに岡山市内の済生会総合病院へ直行した。

 医師がCTスキャンを見ながら診断結果を左眼窩(がんか)骨折と伝えると、三沢は顔に手を当て絶句した(写真)。公式リーグ戦はまだ3試合残っていた。

 前年のC・カーニバルはダグ・ファーナスのフランケンシュタイナーで首を痛打して、翌日深夜になり痛みが首から腰にきて、次の日試合に出場してはみたものの、立っているのがやっとの状態。結果、シリーズを途中欠場していた。 
 
 骨折を負った岡山大会の翌日は、試合がなく運よく移動日のみ。大阪へ到着するとすぐに市内の大阪中央病院へ向かった。治療を終えた三沢は「(残り3試合は)出るよ」とひと言。そして、「去年も途中欠場で悔しい思いをしてるから、今回はこれぐらいで休めない」。悲壮な決意を語った。

 果たして、三沢は残りの3試合を秋山準(8日、大阪)には新技のリバースフルネルソンデスロックを決め勝利し、スタン・ハンセン(11日、名古屋)、田上明(12日、後楽園)とは時間切れ引き分けで首位をキープ。4月15日、日本武道館の優勝決定戦に進出した。そして、田上をタイガースープレックスでフォールし、悲願の初優勝を飾った。

 試合後、「最悪の状況(失明)も考えていた」。驚きの覚悟を明かした。

 いつだったか、「相手の技を避けるようになったらプロレスやめるよ」そう話してくれたことがあった。「四天王プロレス」の過酷な戦いでも、そのポリシーは貫いた。

 そんな三沢が不慮の死を遂げてから13回忌が過ぎた――(敬称略)。