【久保康生 魔改造の手腕(32)】2012年オフ、韓国の斗山ベアーズでの半年間のコーチ契約を終え阪神に復帰しました。当時の中村勝広GMからは二軍での若手育成に注力するよう依頼され、私の希望ともマッチしました。

 ファームでは調子を落とした外国人助っ人も預かることになります。13年に印象に残っているのは、5月下旬に新加入してきたブレイン・ボイヤーですね。

 08年にはMLBで76試合に登板するなど、来日時点でメジャー7シーズンの経験がある投手ではありました。

 当時の阪神は和田豊監督2年目。長年、守護神を務めてきた藤川球児がシカゴ・カブスへ移籍したシーズンでした。先発からクローザーへ回った久保康友、セットアッパーの安藤優也や福原忍も5月には調子を落とし、中継ぎ投手を緊急補強する形となりました。

 ボイヤーは二軍調整を経て6月21日に初登録。2日後の23日にNPBデビューを果たしますが、期待通りとはいきませんでした。

 スピードガンでは150キロを超える直球を投げるのですが、空振りを奪えないケースが目立ちました。大振りをせず、確実にコンタクトしてくる日本の打者に苦しんでいました。

 デビューから1か月ほどして登録抹消。そこから二軍で預からせてもらいました。相手がメジャーリーガーでも、基本的に私のコーチングではやることは同じです。

 メッセンジャーやスタンリッジにも説いたように、丁寧に自然現象を利用した理にかなったフォームを少しずつ身につけてもらいました。加えてそれぞれのカウント別での打者心理なども、徹底して説明します。

 ボイヤーも190センチを超える長身でした。うまく指導がフィットし3週間後には再び一軍へ送り出すことができました。8月後半からシーズン終盤、CSと続く激戦で戦力として活躍してくれました。

 一軍復帰後の13試合は素晴らしい内容で、最終的に22試合に登板し3勝1敗、防御率2・67。試合後のインタビューで「二軍で指導してくれた久保さんに感謝している」と表現してもらい、ありがたかったです。

 ボイヤーは阪神では1シーズンのみの在籍でしたが、その後もメジャーで活躍しました。帰国2年後の15年にはツインズで68試合に投げ3勝19ホールド、防御率2・49というキャリアハイの成績を残してくれました。

 少し時代は飛びますが16年から4年間、阪神に在籍したドリスも印象に残っています。当時の金本知憲監督から「球は速いが直球で空振りが取れない。何とかならないですか」ということでしたので「何とかできますよ」と答えて二軍で預かりました。

 ドリスの場合はメッセと少し似ていました。腕が下がり、ものすごく横振りになっており193センチの長身を生かせていませんでした。こうなると投球の軌道を長方形の立体であるストライクゾーンにうまく通すことができません。ストライク、ボールの区別が容易になるばかりか、縦の変化球の効果を有効に発揮させられない状態でした。

 とにかく、手首を立てることを意識させ、上からボールを叩くトレーニングを繰り返しました。もちろん、メッセやスタン、ボイヤーたちに話したのと同じように、私の理論を理解してもらった上でドリルを実行してもらいました。

 ドリスはこんなにすんなり矯正できるかというくらい、縦振りのフォームに変身してくれました。16年オフには右ヒジを手術しましたが、17年には阪神のクローザーとして37セーブ。劇的なビフォーアフターで好条件の契約を勝ち取ることに成功しました。

 ☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。