タレント荒木由美子が、今月25日に62歳の誕生日を迎えた。1976年(昭51)に16歳で故郷・佐賀を離れて、17歳で歌手デビュー。歌手湯原昌幸(74)と23歳で結婚して引退、義母の介護を経て04年(平16)年に44歳で芸能活動を再開した。今月18日には九州佐賀国際空港で行われた、春秋航空の「佐賀-上海就航線10周年」のイベントに出席した。その軌跡を振り返った。

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03年に義母が亡くなり、20年に及ぶ介護生活が終わった。04年には同じような人たちの参考になればと、著書「覚悟の介護」を出版した。

「義母からは老いていくこと、生き抜くこと、そして死んでいくことを教わったと思っています。子育てと並行して大変な時もありましたが、夫の湯原がいつも『ありがとう』と言葉をかけて支えてくれました。そうした忙しい生活の中でも、時間をつくって着物の着付け教室や陶芸教室に通ったのも気分転換になりました」

介護生活を終え、息子も成人した荒木に新しい生活が待っていた。

「19~20歳の時に主演させていただいた、バレーボールにかける青春を描いた連続ドラマ『燃えろアタック』は中国でも『排球女将』という題名で放送されて、視聴率80%以上の大ヒットをしていたんです。中国の皆さんが、私のことを、主人公の役名の小鹿純子(ショウルー・ツゥンツ)として覚えていてくださっていたんです」

ジャンプして空中で1回転してから打つ「ひぐま落とし」などの必殺スパイクは、中国の人々にも強烈な印象を残した。勝負にかける不屈の精神は、国境を越えて大きな共感を呼んでいた。その時のファンの1人が、中国最大のインターネット通販「アリババ」グループを率いるカリスマ経営者ジャック・マー氏(57)だった。

「人を介して連絡があって、03年に会わせていただいたんですけど、私というより小鹿純子の熱烈なファンでした(笑い)。つらい時、困った時に乗り越える勇気をもらったと言っていただきました。それで、招待を受けて中国に行ってみたら大歓迎を受けて感激しました」

コロナ禍前の20年1月には上海のデパート「高島屋」のステージで、中国のファンを前に「燃えろアタック」の主題歌を披露した。

「今はコロナ禍で、なかなか中国に行くことが出来ませんが、あの温かさは忘れません。義母が亡くなって04年に芸能活動を再開する時に、中国にたくさん応援してくださる方がいるというのが、夫の湯原とともに大きな支えになってくれました」

故郷・佐賀と上海の春秋航空路線が開通して10年。

「佐賀の名産である有田焼をプロデュースして、ティーポット、ティーカップ、プレートなどを作成した。

「佐賀には素晴らしいものがたくさんあるんです。それを中国の方に紹介して、故郷の力になりたいですね。中国の方が見てくれるSNSのweibo(ウェイボー)を始めて、日常の写真をアップするようにしています。佐賀-上海便10周年のイベントもアップされています。中国から『イイネ』が帰ってくると、コロナ禍でステイホームを強いられていても、世界はつながっていることを実感します」【小谷野俊哉】

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“ポスト百恵”デビュー、結婚引退も復帰…荒木由美子故郷佐賀と上海つなぐ

荒木由美子「私に科せられたハードル」結婚引退後20年に及んだ義母の介護

◆荒木由美子(あらき・ゆみこ)1960年(昭35)1月25日、佐賀県神埼町(現神埼市)生まれ。76年「第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン」で審査員特別賞。77年6月「渚でクロス」で歌手デビュー。79~80年テレビ朝日系連続ドラマ「燃えろアタック」主演。83年に13歳年上の歌手湯原昌幸と結婚して引退。04年芸能界復帰。15年著書「介護のミ・カ・タ。」。17年CD「私はブランコ」。153センチ。血液型B。