【冬季五輪の主役たち(連載4)】5個の金メダルを含む合計10個のメダルを獲得した1998年長野五輪から4年。メダルラッシュが期待された2002年ソルトレークシティー大会は、無情にも金メダルゼロに終わった一方、誰よりも注目を集めたのはやはりスピードスケート男子の清水宏保だった。

 低い姿勢から、勢いよく飛び出す「ロケットスタート」を武器に、前回の長野五輪では、500メートルでスピードスケート界初の金メダルを獲得した。同年4月には所属先の三協精機(現日本電産サンキョー)を退社。日本初のプロスピードスケーターとなり、NECなどとスポンサー契約を結ぶなど、さまざまな面で冬季競技界に一石を投じた。

 96年に初めて世界記録を樹立すると、その後は長年にわたり世界のトップに君臨。01年3月には、これまでの記録を0秒31縮める34秒32をたたき出し、自身4度目の世界記録を樹立した。ソルトレークシティー五輪シーズンは序盤こそ腰痛の影響で不調だったものの、年が明けた02年には復調。「日本勢で一番金メダルに近い男」として500メートルのスタート地点に立った。

 当時はインスタートとアウトスタートの2回合計のタイムで順位を競う方式。清水は初日の1本目で34秒61をマークし、翌日の2本目は34秒65。2本合計は1分9秒26だった。ところが、初日に34秒42を記録したケーシー・フィッツランドルフ(米国)が2本目を34秒81でまとめ、2本合計1分09秒23。清水は0秒03差に泣き、銀メダルに終わった。

 レース後、ハードな練習で自身を追い込んでいた清水の肉体は限界に達し、ボロボロだった。「今日も(腰の)3か所に痛み止めを打って臨んだ」と告白。腰を曲げるだけで激痛がはしり、日常生活もままならないほどの状態だったという。それでも「結果は出なかったが、やるべきことはやってきた」と一切の言い訳はなし。2大会連続の金メダルを逃したとはいえ、最後まで〝清水宏保〟を演じ切った。

 その後は06年トリノ五輪にも出場。通算で4度五輪を経験した。W杯では個人通算34勝を挙げ、北京五輪金メダル候補で女子の小平奈緒(相沢病院)とともに、日本勢歴代最多勝利数を誇る。その小平は「神の領域の人」と尊敬の念を抱く清水の背中を追いかけ、現在のスピードスケート界をけん引。清水の残した遺産は後輩たちに脈々と受け継がれている。