【冬季五輪の主役たち(連載7)】あの感動は色あせない。2014年2月のソチ五輪はフィギュアスケート男子の羽生結弦が初の金メダル、スキージャンプの〝レジェンド〟葛西紀明が男子ノーマルヒルで銀メダルを獲得。さらにノルディック複合の渡部暁斗、スノーボードの平野歩夢も表彰台(ともに銀メダル)に上るなど役者が活躍した。

 しかし、今も人々の心に強く残っているのはフィギュアスケート女子フリーだろう。国民的ヒロイン浅田真央は演技を終えた瞬間、天をあおいで号泣。金メダルには遠く及ばず6位に終わったが、スタンドで見守った選手も観客も涙し、日本国民がテレビの前で泣いた。今も当時の演技を「フィギュア史上最高」と称する人は多い。

 皮肉にも「伝説」を色濃くしたのは前日の絶望だった。真央はショートプログラム(SP)で冒頭のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)で転倒し、続くジャンプも全てミス。スピンとステップのレベルも取りこぼし、55・51点という信じられない得点で16位に沈んだ。ライバルのキム・ヨナ(金妍児=韓国)、アデリナ・ソトニコワ(ロシア)に大きく水をあけられ、この時点で金メダルは絶望的となった。

 一体、何が起きたのか。試合直後のインタビューで真央は「自分でも終わってみて、まだ何もわからないです」と放心状態。佐藤信夫コーチも「調子が悪いわけでもないし、何が原因か」と言葉に詰まった。体の故障もなく、練習の動きは抜群。目に見えない緊張なのか、重圧か。真央は「自分の体と気持ちにズレがあり、体がついていかなかった」と敗因を探したが、まさしく五輪にひそむ魔物のいたずらだった。

 まさかの事態に海外メディアは「衝撃」の文字を打った。ロイター通信は「3回転半のギャンブルが裏目」、AP通信は「浅田が五輪の氷に沈んだ」と伝え、日本の新聞各紙も紙面構成を大きく変更。真央の敗因を詳報し、日本中に広がる動揺を大々的に報じた。

 ドン底から約22時間後、真央はフリーで蘇生した。3回転半ジャンプ(トリプルアクセル)を皮切りにフリップ―ループの3回転の連続ジャンプなど8つの3回転を全て成功。最後はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」の調べに乗り、魂のステップを踏んだ。振付師のタチアナ・タランソワ氏が「真央の喜びと悲しみの全てを表現した」というプログラムを見事に体現し、冒頭の涙のシーンにつながった。この場面はNHK総合で中継され、深夜の午前1時47分、瞬間最高視聴率19・5%を記録(ビデオリサーチ調べ 関東地区)。先の見えない絶望の中、生涯最高の演技を見せて伝説が完結した。

 真央は17年4月の引退会見で一番の思い出に「ソチのフリー」を挙げた。全日本連覇の紀平梨花(トヨタ自動車)も「終わった瞬間のポーズに感動し、五輪を意識しました」と話す。国際大会で数々の栄光を手にしたが、最も多くの人の心を動かし、影響を与えたのは〝無冠〟の演技だった。

 スポーツは結果が全てなのか。そんな議論をよく耳にするが、真央のソチ五輪フリーが一つの答えを出したことは間違いない。