【久保康生 魔改造の手腕(38)】阪神でのコーチ時代、最も白星を挙げてくれた投手は下柳剛でした。私が近鉄の合併、消滅の後に阪神入りした2005年には最年長での最多勝を記録しています。

 ダイエー、日本ハム、阪神、楽天で通算22シーズンを過ごし129勝。阪神に加入した03年以降、10年までの8シーズンで80勝を積み重ねました。35歳を過ぎてからの数字と考えれば大変な数字です。

 すべてのボールがストライクゾーンに向かってくるように見える。打ちにいくとスッと逃げるという投球術に感銘を受けました。

 05年10月5日、シーズン最終戦のことは特に印象に残っています。下柳が最多勝を確実にする15勝目を挙げた試合です。すでにリーグ優勝は決まっており、この試合をシモに預けるとコーチ会議で決めて臨みました。

 試合は2―2の同点で終盤へと進みました。8回が終わった時点で、当時の岡田監督と私は甲子園のベンチ裏で口論になったんです。

「これから日本シリーズもあるやん。壊れたらどうすんねん」

 降板を促す岡田監督に「日本シリーズまで、まだ1か月あるじゃないですか。コーチ会議で『今日のゲームはシモにやる』と言ったじゃないですか」と返しました。

 下柳は奥のロッカーでアンダーシャツを着替えていて、このやりとりを聞いていました。監督があきれて「勝手にせえや」と言い放った後、下柳が両手を合わせて「すいません」という顔でこっちを見ていました。

 複数の人間の前で「このゲームはシモにやる」と、監督は言ったんだ。それはもう約束だから大丈夫だと言って、9回のマウンドに送り出しました。

 9回二死の場面では下柳に打席が回ってきましたが当然、代打はなし。そのまま延長10回も投げ切りました。球数は自己最多の148球にまでなりました。

 ダッグアウトからロッカーに下りていくと、下柳はユニホームを脱いだ状態でした。さすがに、そろそろ代わるか? もうやめようかと声を掛けると「すいません。ありがとうございます。もう十分です。ここまで投げさせてもらいましたから」と返ってきました。

 そしたらその直後ですよ。サイドスローの加藤から2年目だった鳥谷が左中間にサヨナラホームランですよ。予想できない結末でしたね。

 入団したばかりの鳥谷は、お世辞にもうまいショートとは言えませんでした。そこに下柳は「下手くそ」と言ってはハッパをかけてね。うまくなってほしいという思いを乗せて厳しく接していました。

 叱咤激励とは分かっていても、鳥谷は悔しい思いをしてプレーしていたと思います。「下手くそ」と言われる屈辱を胸に猛練習を積んだ現実を、我々も見てきていますからね。あの本塁打は鳥谷が下柳を見返した恩返しの一発でしたね。

 それぞれのプレーに、いろんなドラマが詰まっています。しかし、あのまま下柳が続投なんてことになっていたら、どれだけ岡田監督が怒っただろうと考えると、ゾッとしますね。

 数々の出会い、喜びや心残りもありながら阪神でのコーチとしての日々は終わりました。ただ、これで終わりではありません。新しい環境ではまた、新たな出会いがあります。

 17年、阪神を退団することが決まると、私の出身地である福岡県を本拠地とするソフトバンクホークスからオファーをいただきました。若手投手を育てるというミッションを新たに背負い、新天地で活動の場をいただくことになりました。