【プロレス蔵出し写真館】先月の1月27日は、1993年に46歳の若さで亡くなった〝大巨人〟アンドレ・ザ・ジャイアントの29回目の命日だった。
 
 アンドレがモンスター・ロシモフの名で初来日したのは国際プロレスの70年(昭和45年)1月シリーズ。今から52年も前になる。最後の来日となったのは92年11月の全日本プロレスで、12月4日の日本武道館でジャイアント馬場、ラッシャー木村とタッグを組み大熊元司、永源遙、渕正信組と対戦した。この試合が日本でのラストファイト、そして生涯最後の試合となった。

 主戦場としていた新日本プロレスには74年から86年まで継続参戦。アンドレの全盛期はこのころ、80年前半までだろう。身長223センチ、体重232キロの巨体にもかかわらず動ける体で、アントニオ猪木と数々の名勝負、好勝負(時には短時間で終わり、暴動になりかけた試合なども)を繰り広げた。 

 76年に猪木は「格闘技世界一決定戦」として異種格闘技戦をスタートさせ、6月26日には日本武道館でボクシングの現役世界ヘビー級王者のモハメド・アリと15ラウンド戦った。アンドレは同日(現地時間は25日)、米ニューヨークのシェア・スタジアムでチャック・ウエップナーに圧勝。

 その流れからアンドレは、プロレス代表は猪木ではないと主張して猪木に挑戦表明。同年10月7日の蔵前国技館で、格闘技世界一決定戦と銘打って対決が決定した。

 アンドレは3週間前の9月15日、紺地に楓を散らした粋なオープンシャツにグレーのズボンという気軽なスタイルで成田空港に到着。新日本の外国人選手の常宿だった新宿の京王プラザホテルに旅装を解いた。ホテルにはひとりの男性がアンドレを待っていた。

 オーダースーツ店「キングス クラウン テーラー」の野田昭年さん。

 野田さんは、アンドレがオープンシャツの上からオーダーメイドのスーツに袖を通すと、ベッドの上に乗り仕上がり具合をチェックした(写真)。野田さんの仕事ぶりには定評があり、馬場は日本プロレス時代からの顧客だった。

 さて、アンドレと猪木の試合は激闘となった。猪木にキーロックを決められたアンドレは片腕で持ち上げ、エプロンに放り出す。そしてお株を奪う弓矢固め。カナディアンバックブリーカーを決めると、猪木はコーナーを蹴ってリバーススープレックス。そして、アンドレがスリーパーホールドに捕えると、猪木はロープを利用してエプロンに降り立ち一本背負いで場外へ転落。

 場外戦で、アンドレはヘッドバットを鉄柱に誤爆して流血。リングに戻ると猪木のチョップとパンチの乱打を浴び、たまらずマネジャーのフランク・バロアがタオルを投入して、アンドレのレフェリーストップTKO負けとなった。

 この試合は、78年に公開された様々な格闘技を紹介する記録映画「格闘技世界一 四角いジャングル」で、猪木の格闘技路線を紹介するシーンでアリ戦、ザ・モンスターマン戦とともに映像が流れた。

 新日本に参戦していた79年。6月にMS・Gシリーズが終わると、なんと7月には5年ぶりに国プロに特別出場した。これは、全米で売り出すきっかけを作ってくれた、AWAの帝王バーン・ガニアとの接触の場を与えてもらった国プロに対する恩返しだったようだが、異例のことだった。

 アンドレは80年を過ぎたあたりからヒールとして、ファンはおろか、マスコミさえも遠ざけて〝日本人嫌い〟のキャラに徹した。

 御年90歳の「キングス――」野田さんは「アンドレさんは無口でしたね。それに彼はフランス語をしゃべってましたから、片言の英語と身振り手振りで仕事をしましたよ。日本人嫌い? 私は最後(の来日)まで付き合いましたよ」と振り返った。

 アンドレが、実は義理堅く気が優しかったと明かされるのは、ずっと後になってからのことだ(敬称略)。