【越智正典 ネット裏】「1番ヨナミネ、2番千葉、3番青田、4番川上」の巨人第2期黄金時代の3番、背番号23の青田昇は、ときどきお母さんの話をしていた。

「滝川中学のときに面白半分のイタズラでタバコを吸っとったら、おふくろにバレましてね。そうしたら、おふくろが『吸いたければ私の前で吸いなさい』って。やさしかったな。参ったな」

 その青田は1942年、滝川中の国語の先生、国学院大、東京鉄道局、巨人三塁手兼投手の前川八郎の推挙で巨人入団。本塁打王5回、打点王2回、首位打者1回。出場1709試合、1827安打、265本塁打の野次は心やさしかった。

 相手チームにリードされたまま試合中盤に入ると、好投を続けている先発投手に「お風呂が沸いて待ってますぜ。湯加減もちょうどええようですぜ」。巨人ベンチがそれこそ沸く。青田はそう言ってから、ベンチのナインに向かって「そろそろ(逆転の)お時間ですぜ!」。

 日本の職業野球が始まったのは、ご存じのように36年からであるが、東京六大学野球は人気絶頂。そのころ私は小学生だったが、友だちはみんな六大学の各校のストッキングと同じデザインの六大学鉛筆を持っていて、大事に筆箱にしまっていた。

 37年春秋、38年春秋に明治大が六大学史上初の4連覇。通称代田橋のグラウンドに明治大の練習を見に行くと、控え選手が腹の前掛けをグッと締め、内、外野から戻ってくる打撃練習のボールをキレイに拭いていた。

 試合当日、「タニカン」こと谷沢(たにざわ)梅雄監督が入場して姿を見せると、神宮球場のスタンドから「大統領!」。左腕、清水秀雄投手(米子中、南海)がキャッチボールを始めても「よっ、大統領!」。どうして「大統領」なのか不思議だったが、「天皇陛下」と言ってはいけないらしいのは子供にも分かった。

 明治大のセカンド二瓶敏(大邱商業)の併殺プレーがすごかった。内野ゴロが飛ぶと近くの席のオジサンが「ハイ、お陀仏!」。オジサンは打者走者を少しも見ないで自分に言い聞かせて、内野陣をたたえていた。

 なるほどと思った。大きな声ではなかった。戦争が終わり、ずっと後年に二瓶は東海大の監督に就任(岩田敏)。きっといいチームをつくると思った。70年、阪神入団の上田次朗投手は東海大からプロ入りした第1号選手である。上田は誰に対しても、いつも礼儀正しかった。

 81年、東海大から巨人に入団した原辰徳は入団1年目の米ベロビーチキャンプでは洗濯当番で毎夕、練習が終わってからクラブハウスの奥の洗濯室で洗濯機を回していたが、自分のバットを担いでいくのを忘れなかった。ドジャータウンのプールサイドでのサヨナラパーティーでナインのタツノリコールが起きると、背広姿のままプールに飛び込んでいた。

 前後するが、都市対抗の「川崎コロムビア」を見に行った時もセカンド吉相金次郎(浪商)の前にゴロが飛ぶと、スタンドに“お陀仏オジサン”がいた。私はオジサンの野次に野球を教わっていた。 =敬称略=