ノンフィクション作家の石田伸也さんが、6日午前0時5分に亡くなった。5日夜に脳幹出血で倒れて、日付が変わるとすぐに逝ってしまった。

長らく週刊アサヒ芸能を舞台にライター、編集者として活躍。ノンフィクション作家としては「ちあきなおみに会いたい」「甲斐バンド40周年」などを著し、昨年6月に「評伝 1985年(昭60)の尾崎豊」を出版したばかりだった。

記者にとっては30年来の友人。新宿2丁目にあった「いれーぬ」という、おちゃらけた活字マスコミや芸能、ワイドショー関係者が集まるゲイバーの常連同士だった。2人でつるんで飲みに行くほどの仲ではなかったが、共通の友人の結婚式で“友人代表”が記者で、“2次会の司会”が石田さんという距離感の間柄だった。それでも、90年代は月に5、6回は一緒に酒を飲んだ。

そして、ノンフィクション作家という偉そうな肩書よりも“お笑いライター”のいしだちゃんとして、古い関東のお笑い関係者には、よく知られていた。1989年(平元)から、お笑いライブ「いしだちゃん祭り」を主催して、若手の芸人に光を当てていた。その打ち上げは、いつも「いれーぬ」で行っていた。くりぃむしちゅーになる前の海砂利水魚の有田哲平(51)や、さまぁ~ずになる前のバカルディ三村マサカズ(54)とグラスを傾けたのも、思い返してみれば石田さんの縁だった。

04年秋の日刊スポーツは、プロ野球がオフになる時期に「週刊ビッグ・ウエンズデー」という企画を始めた。水曜日に中面見開きで、いろいろな特集ページを作る。毎月第2週が「お笑い」で社内公募でお笑い好きを集めた。記者は当然「ヨカタ(素人)とはやってられるかよ」と応募しなかったのだが、しばらくすると当時の局次長からメールが来て「今から応募しろ」と業務命令が下った。遅れて合流してみると、取材経験がない者が大半で、アポの取り方すら知らない内勤者もいた。

とりあえず、偉い人に相談しようと思って、当時は吉本興業の東京支社長だった元フジテレビのひょうきんプロデューサーの元締めで、11年に亡くなった横澤彪さん(享年73)、今もニッポン放送「ラジオビバリー昼ズ」で大活躍の高田文夫先生(73)のところに行って、あれこれと話を聞いてもらった。おふたりの名前は水戸黄門の印籠のごとくお笑い界に輝いていたので、新しい企画がドンドン決まっていった。

そして最後に頼ったのが石田さん、いや、いしだちゃんだった。ビッグネームより、これから売れるであろう未知の芸人を紹介してもらった。初めに紹介してくれたのは、歯科医助手のアルバイトをしているという若い女性芸人だった。顔つきもメークも口調もきつい感じではなく「パホ~」という具合にボケるネタをやっていた。その3年後くらいに、その女性芸人は大ブレークした。今の鳥居みゆき(40)だ。

いしだちゃんは、そういう人だった。最近では本を出した時に連絡が来るくらいだったが、ジムに通ってマラソン出場を目指していたと聞いて残念だろうなと思った。

冥福をお祈りします。