【昭和~平成 スター列伝】ミスター・プロレスこと天龍源一郎は2日に72歳の誕生日を迎えた。今なお大会配信の解説を務めるなど、引退から7年目になる今年も元気いっぱいである。

 1976年10月に全日本プロレス入団直後、米国修行に出た天龍のデビュー戦は、76年11月13日テキサス州のテッド・デビアス戦。この後、海外修行から一度帰国して12月5日に日大講堂で断髪式を行い、再渡米する。77年2月11日(日本時間12日)からは修行地アマリロを離れ、NWAの総本山セントルイス地区でサーキットを始める。

 初戦では何とジャイアント馬場と初めてタッグを結成。ドリー・ファンク・ジュニア、パット・オコナーの元NWA世界王者コンビと激突している。観衆は満員8500人。大相撲元幕内出身とはいえ、ルーキーには破格の扱いだった。

『6日にニューメキシコ州アルバカーキで馬場と合流した天龍は、初めてテキサス州アマリロのサーキットを離れて緊張気味だ。デビュー3か月でNWAの総本山に出場するのだから「落ち着け」と言っても無理というもの。そんな天龍に馬場は「オイ俺が先発で出るから心配するな。タッチするときは合図するから俺の後についてこい」と励ます。馬場が愛弟子と初コンビを組んだとあって、他のレスラーもリングサイドに陣取って“相撲レスラー”に熱い視線を送る。アーニー・ラッド、スーパースター・ビリー・グラハム、ムース・モロウスキー…。馬場がやられると猛烈なヤジを飛ばした』
 天龍も緊張しただろうが、馬場も徹底してアシストしなければならない責任感に背中を押されたのだろう。交代した天龍が、ドリーのインディアンデスロックに捕らえられると、絶妙のタイミングでカットに入った。“金の卵”をいかにして敵地の初陣で生かすか。馬場がいかに天龍を大事に育てようとしていたかが、試合経過を見るとよく分かる。

 30分手前、馬場は何と約10年ぶりにジュニアにブレーンバスターを披露する張り切りぶり。ここはオコナーがカットに入った。これで奮起した天龍はオコナーを2度、肩車で抱えるが、電撃の回転エビ固めで丸め込まれてしまった。

 本紙は『天龍がとうとう馬場とNWAの総本山でタッグを組んだ。マゲを切って本格的なプロレスラーになり50日あまり。予想をはるかに上回る速いピッチである。しかも相手は元NWA世界王者コンビ。これほど恵まれたエリートコースはちょっと例がない。同門の先輩でミュンヘン五輪代表からプロレス入りしたジャンボ鶴田よりもむしろいいペースだ。「これなら十分やれる」と感じ取った馬場。このぶんなら5月か6月に日本デビューという線も出てきそうだ』と絶賛している。

 その予想通り、天龍は同年6月11日、世田谷区体育館で馬場と組みマリオ・ミラノ、メヒコ・グランデ戦で日本デビュー。グランデをフォールして日本初陣を白星で飾った。この後は決して順風満帆とはいかず、苦悩にあえぎ海外と日本を行き来する時期が続くも、81年から一気に頭角を現すようになる。その後の関係を考えると複雑な心境になるものの、この試合は“師弟愛”に満ちていたのではないか。

 1月31日が命日の馬場は亡くなってから23年がたっている。時の流れは早く、すべてが夢のようだ。しかし馬場、天龍がひたすら前だけを向いていた若き日の輝きは永遠に色あせないだろう。