【元局アナ青池奈津子のメジャー通信】「どうしてこんなところに日本人学校があるのだろう――。ドミニカ共和国出身の往年の名捕手トニー・ペーニャの故郷モンテ・クリスティの農園を訪れるつもりが「ちょっと寄り道」とトニーに連れてこられたハイチ国境近く、ダハボン地区北側の「コロニアル・ハポネス(日本人植民地)」で受けた衝撃をうまく言葉にするのは難しい。

 正直、私は1956年に日本政府が行ったドミニカ共和国への移民政策について何も知らなかった。すごい野球選手を多く輩出するところ…というのが同国への主な認識。道中で「MUKAI RICE FARM」の看板を見た時も「『ムカイ』って日本人の名前と一緒だ」と言って「あれはジャパニーズだ」とトニーに笑われた。「ドミニカの農業は日本の影響を大きく受けているんだよ」と教えられても「ドミニカで事業をする粋な日本人がいるのか」と誇らしく思いこそすれ、重要な歴史的背景を見逃しているなんて夢にも思わなかった。

 道すがら目にした「日本人墓地」や「移住記念碑」には日本語が添えられていた。都市部から車で3時間ほどの決して便利とは言えない場所に根付く日系社会にうれしくなり、熱いものが胸に込み上げた。

「ドミニカでは日本人移民の子孫たちを『ニッケイ』と呼んでいるんだ」

 トニーの計らいで、同地に詳しいメルビン・マルティネスさんが、案内してくれた。当初62組いた移民らは65年の間に帰国か移転し、そこに残る「ニッケイ」は重留さん一家だけという。メルビンさんの甥で、日系4世のジュンペイ君の祖父だそうだ。ボロボロになってしまった日本人のために建てられた映画館や、今でも近隣の日系3世、4世の50~60人が通うというJICA(国際協力機構)による日本人学校もあった。学校は休みだったが、野球フィールドでは日系少年2人がキャッチボールしていた。

「カリブ海の楽園」と聞かされて移住してきた当時の日本人が目の当たりにしたドミニカの実態は天と地ほどの差があったという。2000年には国を相手取り、損害賠償を求める訴訟にまで発展した。そんな事実を踏まえながらも、メルビンさんは「こちらではポジティブなことと捉えられている」と言ってくれたのが印象的だった。苦労の中にも楽しい思い出はあったのだろう。

「日系移民がドミニカにいるなんて、今まで一度も言わなかったじゃない!」とトニーに問うたら「僕もずっと知らなかったんだよ!」と両手を挙げて弁明した。確かに貧しい農夫の家に生まれ、学校まで23キロの道を毎日ヒッチハイクで通いながら野球選手を夢見て必死に生きていた16歳とか17歳のトニーが、近所で日本人が田園を営むことになった経緯など知る由もなかっただろうな、と思う。話を聞きながら一緒に驚いていた。どうやら私が日系人とドミニカ共和国の関わりを知ったら喜ぶだろうと、わざわざ知人に問い合わせてくれたらしい。どこまでもスマートなおじさんだ。野球界は実に惜しい人を失ったのではないか。

「いいんだよ。野球を忘れ、野球に忘れられるでいいんだ」。そんなトニーのひと言が妙にカッコよくて忘れられない。3回にわたってお送りしてきたトニー・ペーニャ物語は次が最終回。=続く=

☆トニー・ペーニャ 1957年6月4日生まれ。64歳。ドミニカ共和国モンテ・クリスティ州出身。右投げ右打ちの捕手。80年にパイレーツでメジャーデビュー。実働18年間で1988試合に出場し、1687安打、107本塁打、708打点。現役引退後はロイヤルズの監督、ヤンキースのコーチなどを歴任。第3回、第4回WBCではドミニカ共和国代表監督を務め、第3回大会では母国を世界一に導いた。