【取材の裏側 現場ノート】創立50周年を迎えた新日本プロレスの「旗揚げ記念日」(1日、東京・日本武道館)で行われたセレモニーには団体のOBたちが集結した。創始者・アントニオ猪木氏の来場こそ叶わなかったが、19名のレジェンドの豪華な顔ぶれは団体の歴史の重みを感じさせた。

 プロレス界はとかく人間関係が複雑になりがちで、円満とは言えない形の離脱・退団が少なくない。長く見続けてきているファンほど、今回のセレモニーには感情が揺さぶられたはずだ。

 波乱万丈の新日本プロレス50年の歴史のなかで、最大の危機はいつだったのか。坂口征二相談役と藤波辰爾の歴代社長2人に聞いて、共通して返ってきた答えがやはり1984年の選手大量離脱だ。80年代に入り黄金期を迎えていた新日本だったが、84年に設立されたUWFに前田日明、高田延彦、藤原喜明らが移籍。前年に引退表明していたタイガーマスク(佐山聡)も合流する。さらに9月には長州力をはじめとした13選手が退団。ジャパンプロレスを設立し、全日本プロレスに主戦場を移した。

「選手が何人かしか残らなかったっていう。あの時はプロモーターだって(興行を)買ってくれないんだから。前田はいない、長州はいない、タイガーマスクはいない。ちょっとどうなっちゃうのかなって」(藤波)

「みんなで『将来どうなるんだろう』って。長州たちが辞めて行って、みんなで箱根で合宿やったときはつらかったな」(坂口相談役)


 しかしこの合宿に当時新人として参加していた闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)が、先輩レスラーが抜けた新日本マットで若くしてチャンスをつかみ台頭。結果的に史上最大の危機は新たなスターを生み、90年代の隆盛につながった。

 ちなみに藤波は団体にとって「暗黒時代」と呼ばれる2000年代に社長を務めていた。人気絶頂のK―1やPRIDEといった格闘技に猪木氏が関わるようになり、新日本の現場と板挟みになることも多かった。「会社的に苦しい時期だったし、猪木さんは新日本プロレス離れてね。気疲れだよ、毎日毎日。女房や子どもたちは、今日は俺がどんな顔して帰ってくるのかとピリピリしてたらしいよね」と苦笑交じりに振り返るが、それでもやはり1984年こそが団体史上最大の危機だった理由についてこう付け加えた。

「というのはね、あの時、UWFがあったでしょう。UWFにはものすごく危機感を感じたんですよ。新日本プロレスの生まれ変わりじゃないんだけど、UWFの旗揚げみたいなリング上の雰囲気、選手の一丸さって、新日本プロレスの旗揚げ戦とまったく同じなんだよ。それが乗り移ったみたいな感じでね。K―1とか、あれは違うものだから。一過性のものでもあるし。ただそこに猪木さんが肩入れしているというのは自分たちからしたらカチンと来たけどね。でも猪木さん自身があえてやったっていうのは、我々にもっと危機感を持てと言うメッセージだったんだろうなと思いますよ」

 他競技のムーブメントや時代の流行には左右されない。新日本を脅かすものがあるとするならば、それは新日本そのものだという藤波の哲学は、セルリアンブルーのリングで戦ってきた男の矜持を示している。

 旗揚げからちょうど50年がたった2022年3月現在、新日本プロレスはいまだに出口の見えないコロナ禍の影響により苦しい時代を送っている。それでも藤波が「大変だったことはいっぱいあるんだけど、そういうことがあるたびに新日本は強くなるんですよね。不思議な団体、ほんとに」と語るように、試練こそが団体を強くしてきたのも事実。この苦境を乗り越えたその先に、新たな黄金期が訪れるはずだ。(プロレス担当・岡本佑介)