【プロレス蔵出し写真館】3月6日、新日本プロレスが団体創設から50年を迎えた。1日に東京・日本武道館で行われた「旗揚げ記念日」にはOBたちが大集結した。

 前田日明は「高校1年か2年の時に猪木VSアリ戦があったんだよね」と振り返っていたが、アントニオ猪木が現役のプロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリと「格闘技世界一決定戦」で激突したのは、今から45年前の1976年(昭和51年)6月26日(日本武道館)だった。

 5月12日、猪木はこの試合を前に豊島区西池袋の意外な人物を訪ねた。

〝ゴッドハンド〟の異名をとどろかせていた国際空手道連盟極真会館の最高師範・大山倍達。

「三戦立(さんちんだち)用意。始め!」。「セイヤセイヤ」猪木は道着を着て、気合を入れながら大山師範の指導を受け、門下生たちと一緒に正拳突き、前蹴りと稽古に汗を流した(写真)。猪木ひとりだけ蹴り足が逆なのはご愛敬だ。

 さて、この日の稽古はあくまで取材向け。しかし、猪木の道着は新しくはない。胸に「極真會」、裾には「アントニオ・猪木」の刺しゅうがされている。

 猪木は以前から〝極秘裏〟に稽古を積んでいたのだ。ずいぶん後に、極真の佐藤勝昭(全日本選手権優勝者)がテレビ番組で、「猪木に教えてやってくれ」と大山総裁から頼まれたと明かしている。

 練習を終えると大山師範は、ローキックで左足の外側に3発、そして内側へ1発。これでアリは絶対に倒れるとアドバイス。猪木は私もそれを考えていた、と返答した。

 6月11日に猪木とともに会見を行った大山師範は「猪木さんが万一負けたら、極真空手がアリを…」と大勢の記者を前に語った。 

 アリとの一戦は、スタンディングの蹴りが禁止され、猪木は寝て蹴ることを余儀なくされた。当時は酷評された試合だが、後年、評価が上がったのは周知のとおり。

 ところで、猪木と大山総裁の接点は74年11月9日、東京体育館で極真が開催した「第6回オープントーナメント全日本空手道選手権」に、猪木を始めとする新日本の選手が参加申し込みをしたことが発端だった。「ルールがどうとか言うなら我々は全員反則負けになっても構わない」。新間寿営業本部長はマスコミに公言した。

 結局、新日本は参加を見送ったのだが、東スポは一面で東北巡業中の猪木と東京の大山総裁の電話対談で、事の顛末を報じている。以下11月7日付紙面から抜粋。

大山:ウチの空手道選手権大会に猪木さんが出たいという話を聞いた時はびっくりしましたわ。あまりおどかさないで下さい。ワッハッハ。

猪木:ある雑誌(注:少年マガジン)で広告を見ましてね。新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから。カッと血が熱くなりまして(笑い)。でも、考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました。

大山:いや、あなたに出られたらかなわんですわ(笑い)。出てもらわなくてよかった(笑い)。最近、猪木さんの試合はテレビでよく見るんですよ。この間の大木金太郎さんとの試合(注:10月10日、蔵前国技館)も見ましたよ。いい試合だった。今、あなたの黄金時代じゃないですか。

 終始なごやかに話が進み、選手の相互貸し出しで一致をみたと結ばれている。

 余談だが、大山師範は翌75年6月17日、会見を開いた大木から「恩師・力道山先生を侮辱された」と挑戦されることになった(注:大木が韓国に帰ったまま、その後は行動を起こさず雲散霧消した)。

 大山師範は、猪木がウィリエム・ルスカと行った「格闘技世界一決定戦」(76年2月6日、日本武道館)をリングサイドで観戦。猪木と大山師範は良好な関係を築いていた。

 新日本、極真のセコンドが騒然とした中で行われた猪木VSウイリー・ウィリアムス戦は、この日から4年後になる(敬称略)。