【青池奈津子のメジャー通信】42年間も大リーグに関わったトニー・ペーニャは引退後、一度も母国ドミニカ共和国での試合を見に行ったことがないのだそうだ。

 選手時代、米国での野球シーズンが終わると始まるウインターリーグに、アギラス・シバエーニャス(本拠地サンティアゴ。MLBでいうところのレッドソックス的チーム)の一員として18年間出続け、WBCの監督も務めたトニーが試合に訪れると一大事だそうで、関係者のあいさつやファンらの対応で試合をゆっくり観戦することはおろか、ビールもこっそり飲まなければならないからだ。
「パッションは全部フィールドに置いてきたよ」

 今は家のソファで、7人の孫たちとテレビで見るくらいがちょうどいい。

「リタイアには準備がいる。2017シーズン初めに『これで最後だな』と感じてから、一つひとつのことに『もう二度とできないかもしれない』と思いながら過ごしたんだ。引退直後2週間は大変だったけどね。でも、野球は十分楽しんだ。本当に何年も。野球から離れるのは、パッションがある分だけ難しい。だから、皆コーチなどですぐ戻ってくる。僕は選手引退時も3、4年かけて準備したよ。トレーニング、食事、映画など家族以上に時間を過ごしてきたチームメートたち、困った時に頼れる仲間たちをレットゴーするには、自分の持ってるものすべてを出し切るしかない」

 全心全力。それはトニーが母ロザリアさんから引き継いだ信念だ。

「母から愛と野球に対する目的をもらった。僕はとても貧しい家の出身だから、唯一家族を助ける方法は野球で稼ぐことだったけど、母は常に『自分を全部捧げないのであれば、やるな』と。正しい教えだよね。学校で勉強は教えてくれるけど、自分のあり方は両親が教えてくれるもの。どこへ行っても僕についてくる大切なルーツ。何をしていても、僕は父なら? 母なら? どう判断するだろう、と自然に考える。自分の子供たちにも引き継がれているといいな」

 約47年前、噂を聞きつけ島の端っこまで訪ねてくるスカウトらを追い返そうとする母を全力で説得するところから始まったトニーのプロ野球人生。「今思えば、母は僕が正しい判断ができるか試していたのだろう」。貧しくとも気高く息子を育てたロザリアさんの愛情をトニーを通して感じた旅だった。

 さて、4回にわたってつづってきたドミニカ旅行記の最後は、42年間の思い出の中で「やっぱり一番は初めて大リーグのユニホームを着た日」というトニーの言葉で美しく終わらせようと思ったのだが…。

「そういえばね。1977年か78年だったかな。広島東洋カープが初めてアメリカに来た時、キャッチャーのキモトサン!試合中ボールがあそこに当たって床に突っ伏したんだ。思わず飛び出して身ぶり手ぶりで『カップは?』って聞くと、『うう…』と身悶えながら『ノー』って。当時、日本ではカップを使ってなかったんだね。僕の予備をあげたのを覚えているよ」

 トニーがしっかり覚えていた「キモトサン」とは、木本茂美さんのことだろうか。

 ☆トニー・ペーニャ 1957年6月4日生まれ。64歳。ドミニカ共和国モンテ・クリスティ州出身。右投げ右打ちの捕手。80年にパイレーツでメジャーデビュー。実働18年間で1988試合に出場し、1687安打、107本塁打、708打点。現役引退後はロイヤルズの監督、ヤンキースのコーチなどを歴任。第3回、第4回WBCではドミニカ共和国代表監督を務め、第3回大会では母国を世界一に導いた。