前回は新日本プロレス創設者のアントニオ猪木が、旗揚げ戦から7か月後に最初に仕掛けた大勝負である、1972年10月4日蔵前国技館のゴッチとの「実力世界一決定戦」についてお伝えした。猪木はゴッチの持つ「幻の世界ヘビー級ベルト」を見事に奪取し、新日本にとって最初の名誉をもたらすのだが、5日後の“赤覆面男”レッド・ピンパネールとの初防衛戦についてはあまり知られておらず、資料もほとんど残っていない。

 当時は地上波テレビ局のバックアップもなかったため、ゴッチ戦はテレビ東京が特番として放送した。しかし同年10月9日広島県立体育館で行われたピンパネール戦はテレビ中継もなく、集まった4100人(主催者発表)の観衆やマスコミだけが、生で目撃した“歴史の証人”となった。大げさに言えば幻の一戦である。

 相手のピンパネールは外国人ルートがまだ手薄だった創設期新日本の外国人エースとして活躍した。190センチ、120キロの大型選手で、日本プロレス時代の67年1月には素顔のアベ・ヤコブとして初来日。ミスター・アトミックと組んで吉村道明、大木金太郎組のアジアタッグに挑戦するほどの実力者で、この時が2回目の来日となった。

「実力世界一」のベルト奪取から興奮冷めやらぬまま、本紙は1面でこの一戦の詳細を報じ、王座戦は「新日本プロレス世界選手権」と微妙に表記している。

『赤覆面ピンパネールは必死に猪木に食い下がったが“ベルト”を意識しすぎた。蔵前国技館で猪木とゴッチが見せた華麗なるストロングスタイルの一戦を見ているとあって、あまりに「技で勝負」を意識しすぎたようだ。ピンパネールの凄みは小憎らしいほどのラフプレーと、汚い足殺し技のコンビネーションにあり、反則でペースをかく乱するのが常とう手段なのだが、この日は真っ向から勝負に出た。3分過ぎと15分過ぎにはレッグブリーカーから必殺のキウイロールで勝負に出たが、猪木に封じられて戦力は半減。前半10分にかけてメチャクチャに反則に狂い、猪木のペースを崩すべきだった。テクニックとキャリアが敗戦につながった。逆に猪木はベストコンディションで大阪(10日)のゴッチ戦に臨める。20分までピンパネールを引っ張り、翻ろうしてスタミナをロスさせて、ヘッドロックから首投げ、ブレーンバスターの2連発。さらにはブレーンバスターの4連発。棒立ちになったところ。すれ違いにバシッと卍固め。猪木はピンパネールに快勝。チャンピオンベルトを披露した』(抜粋)

 結局、翌日10日の大阪府立体育会館のリターンマッチで、猪木はゴッチにベルトを奪われ「1週間天下」に終わってしまうのだが、それだけにピンパネールとの初防衛戦は、マット史に残る貴重な記録となった。旗揚げ7か月目で猪木が初めて本来の輝きを放ったゴッチとの王座連戦と初防衛戦だった。

 この戴冠を踏み台にして猪木は新たな挑戦を続ける。翌年73年10月13日蔵前国技館では、坂口征二と組んでルー・テーズ、ゴッチ組との「タッグ世界一決定戦」で勝利。そして12月10日東京体育館でジョニー・パワーズを破り、悲願のNWF世界ヘビー級王座を獲得。74年にはストロング小林との“昭和の巌流島”、大木金太郎との激闘などの日本人対決、タイガー・ジェット・シンとの抗争など、至宝のNWFベルトを手に一気に過激な時代の寵児となっていく。(敬称略)