21年に結成40周年を迎えた、サンミュージック所属のお笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」が1日、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期していた「ブッチャーブラザーズ40周年+1記念単独ライブ 副社長とコミッショナー」を東京・なかのZERO小ホールで開催する。

開演前に囲み取材に応じたリッキー(63)は、本名の岡博之として務める、サンミュージック副社長として「歌を売りたい。『平成という時代は、うちにない…紅白、出てないでしょう?』って。(会社名から)ミュージック、取ったらいい。良い歌い手、いるでしょうと? 会社で言ったんです」と力を込めた。その上で「歌は、昭和から平成に変わる時、紅白に5人出したのが誇りだった」と振り返った。

ブッチャーブラザーズは、東映京都撮影所の大部屋俳優からキャリアを始め、知り合った森田健作の付き人兼マネジャーとしてサンミュージックに入所。1980年(昭55)にコンビを結成も、83年にサンミュージックがお笑いから撤退したためプロダクション人力舎に移り、養成所スクールJCAで指導。1期生にアンジャッシュ児嶋一哉(49)、2期生には渡部建(49)がいた。フリーだった98年、サンミュージックが新世紀お笑いプロジェクト「プロジェクトGET」を発足させた当時、プロデューサー就任を含めて打診された。渡部と同期だった弟子のダンディ坂野(55)を引き連れて復帰した経緯がある。

サンミュージックには、現在も所属する都はるみに加え、松田聖子、早見優、酒井法子ら、紅白に出場した演歌歌手、アイドル歌手が多数、在籍した時代があった。リッキーは「歌のシーンですね。演歌、Jポップ…必ず、歌は日常にあるもの。商売になる」と力説。その中、相方ぶっちゃあ(67)が「松田聖子さんが売れて、僕らクビになって人力舎に行った」と83年の一時退社を絡めたツッコミを入れると、苦笑した。

リッキーはサンミュージックに復帰すると、定期ライブの開催を提案し、ぶっちゃあとプロデューサーに就任。すると、坂野がNHK「爆笑オンエアバトル」で頭角を現し、カンニング竹山(50)がキレ芸で日本テレビ系「エンタの神様」でブレーク。他事務所で芽を出しきれなかった芸人がサンミュージックでブレークし、メイプル超合金のカズレーザー(37)の活躍に続く、お笑いという軸を同社に作った、いわば中興の祖とも言うべき存在で“東京お笑い界の父”との声もある。

リッキーは「(会社に)戻って、お笑い班が出来た。5年、売れず…でもダンディ坂野が売れ、カンニング竹山も、ヒロシも、小島よしおも…。私も相方もプロデューサーになり2週間に1回、会議をした。社長の相澤(正久社長)も入った」と復帰当時を振り返った。その上で「(会議で)僕が偉そうに言うようになった。社長が『リードしてしゃべってくれる…裏方もどうだ? 頑張ってくれよ』と」と、11年前に取締役になった経緯を振り返った。

その上で、21年4月に副社長になった途端、ぶっちゃあが「クビにしないでくれよ」と言うことが変わってきたと明かした。囲み取材中も「役員会に挙がると、僕の所で決めなければいけない。重い。嫌なことは『うちは、どうかね…と』言うこと」と言いながら、ぶっちゃあの右肩をたたき、思わず、ぶっちゃあも「今、たたくところじゃないだろう」と自虐ネタを飛ばした。

リッキーは、岡副社長としての立場から「演歌は今、難しいと言う。でも、高年齢の人も、スマホをいじることが出来る。演歌とポップの両輪…BSで特に、昭和歌謡もある。うちは、たくさん持っている」と、サンミュージックが歌手という生きた資産を持っていると強調。「人間が動いている。歌手は売らないといけない。何らかのスタッフ、プロデューサーが知恵絞って…」とスタッフの奮起を促した。その上で「役者も歌(歌手)もそうだけど(テレビ番組に)バラエティーが多い。しゃべらないといけない。画面に出ていくのであれば、体張るくらい、しゃべって…とは思いますね」と歌手、タレントにも、タレント力の向上を訴えた。