【プロレス蔵出し写真館】SNS全盛の現代で、バズりまくっているのが橋本真也と長州力の通称「コラコラ問答」だ。くりぃむしちゅーの有田哲平やケンドー・コバヤシなどもテレビで話題に挙げ、プロレスを知らない世代にも広く周知されている。

 今でこそ“ネタ化”しているが、当時はド迫力の罵倒合戦だった。2003年11月18日、事務所で会見していた橋本のもとに突然、長州が現れた。専門誌に掲載された橋本の「長州力は死んだ」発言から端を発した一連の挑発に、一貫して交わりを否定してきた長州が遂に行動を起こした。

 両者は、藤波辰爾社長(当時)に不可解な「ドラゴンストップ」によって無効試合とされた01年1月4日の東京ドーム以来、2年10か月ぶりに対峙した。

「何がやりたいんだ! コラ! 誌面飾ってコラ! なにがやりたいのか(記者に)ハッキリ言ってやれコラ! 噛みつきたいのか噛みつきたくないのか、どっちなんだ。どっちなんだコラ!」「なにがコラじゃ! コラ、馬鹿野郎」「なにコラ、タコ、コラ!」「舐めてんのかコラ!」。

 近年は、当時の裏話をユーチューブで明かすのが大流行。このやり取りもファースト・オン・ステージの中村祥之代表が仕掛け人だったことを自ら告白している。そして、12月14日、両国大会での遺恨清算マッチは橋本がヒザ十字固めでレフェリーストップ勝ちした。

 長州と橋本の絡みで言えば、今から32年前の1989年(平成元年)12月7日、東京・両国国技館で新日本プロレスの年末シリーズ「ワールドカップ争奪リーグ戦」の決勝戦も印象的だ。

 長州は橋本のDDT、ジャーマン、キックの連発を耐え、橋本が満を持して放ったフライングニールキックを両手ではたき落とし、ラリアート一閃。ドラゴンスリーパーを決め、ギブアップしないとみるや技を解き、覆いかぶさって3カウントを奪い優勝を飾った。

 4日前の12月3日、長崎・壱岐郷ノ浦町(現在は壱岐市)大谷体育館で長州と橋本はタッグで対戦していたのだが、大一番とは違って、思わずクスッと笑ってしまう絡みを見せていた。

 場外乱闘で橋本をダウンさせた長州は、場外マットの端を持って橋本の体を覆い、マットごとゴロゴロ転がした。グルグル巻きにされた橋本は、まさに〝巻き寿司〟状態。長州はストンピングで追い打ちをかけた。

 どことなくユーモラスな光景にセコンドの越中詩郎、小林邦昭、畑浩和(は遠慮気味に)も笑っていた。二人の戦いにはメリハリがあった。

 さて、長州に対する橋本の〝遺恨〟は若手時代まで遡る。

 全日本プロレスに参戦していた長州らが新日本にUターンしたのは87年4月。6月3日の北九州大会で長州軍のヒロ斎藤と対戦したデビュー3年目の橋本は、プロレスの範疇を超えた試合ぶりで斎藤の左手甲を蹴りで複雑骨折させた。これに怒った長州とマサ斎藤は試合後、控室で橋本を〝制裁〟。

 橋本はこれを根に持ち、長州をナイフで刺す練習をシミュレートしていたことが後に明かされた。それは、幸いにも決行されることはなかったが、腹に一物を持っていた。

 二人の初対決は89年4月24日の東京ドームで実現し、橋本は長州をエビ固めで破る大金星を挙げた。翌90年、長州が闘魂三銃士を相手に3連戦を決行した際は、5月28日、大阪大会で橋本のフライングニールキックを浴びてフォール負け。長州は「3人ともうまい。橋本が一番ヘタだけどインパクトは一番強い」と完敗を認めた。

「コラコラ問答」の直前は「アイツは昔の恨みを晴らしたいのか」と本音を漏らしたこともあった長州。

 プロレス界でも1、2を争う犬猿の仲の2人だったが、長州は橋本を買っていたし、「自分を作りあげてくれたのは長州力」。橋本も、そう感謝の言葉を口にしていた(敬称略)。