フジテレビの金光修社長(67)の著書「あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965」(03年)と「東京ビートポップス~音楽も街も人もワクワクしていたあの頃」(10年)が、扶桑社から電子書籍で復刊された。昨年6月の社長就任以来、初めてスポーツ紙のインタビューに応え、その思いを明かした。

金光社長は東京・練馬の石神井で生まれ育ち、高校1年の時に町田に引っ越した。「東京のいわゆる西側。高校生くらいまでは新宿が中心。池袋も渋谷も有楽町も近いんです」。

「あの頃ー」では、日本にアイビーを普及させた石津謙介氏率いるVANについて、スニーカーを取り上げた。「日本にスニーカーをちゃんと持ってきたのはVANなんだって書いたら、石津さんに自筆の手紙をいただいた。『スニーカーのことで、ちゃんと見てくれたのあなただけだ』って、うれしかったですね」。

早大を卒業して1978年(昭53)に西武百貨店に入社。マーケティングを手掛け、83年にフジテレビ入社。編成マンとして89年「料理の鉄人」、90年「カノッサの屈辱」などテレビ史に残る番組を手掛けた。

「なんだか分からないけど、なんでもやらせてくれました。特に深夜とか早朝は」と振り返る。ブームを巻き起こした番組とは別に、印象深い番組として92年に始まった「アジアバグース」と94年の「Revolution No.8」を挙げる。

「アジアー」はアジアのアーティスト育成を目指した視聴者参加型の歌手オーディション番組。インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイなどでも毎週放送された“多国籍番組”だ。「いろいろな国のテレビ局に行って『こういう番組をフジテレビが作るから、タイムテーブル開けてください』と交渉しました。シンガポールで収録があるから、インドネシア、マレーシアから来てくださいと。アジアの複数の国で、このオーディション番組をやって年に1回、グランドチャンピオン大会がある。それぞれの国で放送して視聴率トップになってスターが生まれたりしました。今もインドネシアで女優として活躍している人がいる。今じゃ考えられない」。

94年の「Revolution No.8」では、まだロン毛だったテレビ初登場のモーリー・ロバートソン(59)がMC。アシスタントは電脳アイドルの千葉麗子。Windows95が出来て日本にインターネットの環境が整い始めたのが95年。その1年前にインターネットの生番組。「モーリーはラジオで面白そうだなと思った。バラエティーのプロデューサーから『訳分からねぇ番組やってんじゃねぇ』って怒鳴り込まれました(笑い)。テレビ界では受けなかったけど、役所からとか、経済界から評価受けました」と笑う。

今の時代のテレビマンに対しては「時代が違うから、同じことを求めるのは無理。あの頃は面白ければいい、誰か人がやってなけりゃいいという時代だった。私も今は社長という立場で、認めるって言いたいけど…。でも、何がこれから出てくるのかということを、テレビマンは考えていかないといけない。それは、テレビが生まれてからずっと。次に何がはやるかを」と話している。

◆金光修(かねみつ・おさむ)1954年(昭29)10月28日、東京・石神井生まれ。1978年(昭53)早大第一文学部を卒業して、西武百貨店入社。83年フジテレビ入社。編成担当として「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「カルトQ」「ワーズワースの庭で」「バナナチップスラブ」「ラスタとんねるず」などの番組を手掛ける。97年CS放送立ち上げのためジェイ・スカイ・ビー派遣され、98年に「スカイパーフェクTV!」を立ち上げる。99年BSフジに出向。12年執行役員。13年専務。13年フジ・メディア・ホールディングス(FMH)常務。15年FMH専務。19年FMH社長。21年フジテレビ社長を兼任。