フジテレビの金光修社長(67)の著書「あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965」(03年)と「東京ビートポップス~音楽も街も人もワクワクしていたあの頃」(10年)が、扶桑社から電子書籍で復刊された。80年代から90年代にかけて「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」などを手掛けて、フジテレビに黄金時代をもたらした”伝説の編成マン”。昨年6月のフジテレビ社長就任以来、初めてスポーツ紙のインタビューに応えて、その思いを明かしてくれた。

   ◇   ◇   ◇

高校時代に競馬に興味を持った。「あの頃-」では、1973年(昭48)のハイセイコーのブームを取り上げた。公営の大井競馬でデビュー以来6戦全勝。圧勝続きの”怪物”は中央競馬に移籍して皐月賞、ダービー、菊花賞と続くクラシック戦線を目指した。

「高校時代は通学に往復4時間ぐらいかかって。ひまで、やることないから夕刊スポーツ紙を買って、読んでるうちに面白そうだなと思ってた。競馬を好きになって、2年くらいでハイセイコーが出てきて大ブームになりました」と振り返る。

中学時代に音楽に目覚めた。

「犯罪を犯すような悪い子ではないですけど、普通にチャラチャラ遊んでいる人たちと一緒に行動してましたよね。放課後とかは、真っすぐ家には帰らない。母親は専業主婦だったし、父親はサラリーマンで厳格で厳しい家だったけど、なぜか自由にさせてくれた。音楽は周りのお兄さんみたいな人の影響を受けた。中学校の謝恩会バンドをやりましたし、高校入ってからもやっていました。当時は高校生バンドってまだ珍しい時代だから、大学の文化祭に呼ばれたんです。慶応の三田祭に出ましたけど、うまくないんですよ(笑い)。ただ、物珍しいだけ」。

小学校高学年でグループサウンズ(GS)ブームの洗礼を受けた。「GSにも、ハマりましたよね。それで、よく見に行った。中学生の時に試験が終わったら、四谷にあった文化放送に飛んで行って「ハローパーティー」っていう土居まさるさんが司会の生放送の視聴者参加番組。テレビっ子だったけど、ラジオも聞いてましたよ、深夜放送。夜中まで起きて、勉強する振りしてね。初めてコンサートを見に行ったのは、中学校の時に新宿厚生年金会館。フォーク全盛の頃で、五つの赤い風船のライブでした」。【小谷野俊哉】(続く)

【フジ金光社長連載1】西武百貨店「おいしい生活」「VAN石津謙介さんから手紙をもらった」>>

◆金光修(かねみつ・おさむ)1954年(昭29)10月28日、東京・石神井生まれ。1978年(昭53)早大第一文学部を卒業して、西武百貨店入社。83年フジテレビ入社。編成担当として「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「カルトQ」「ワーズワースの庭で」「バナナチップスラブ」「ラスタとんねるず」などの番組を手掛ける。97年CS放送立ち上げのためジェイ・スカイ・ビー派遣され、98年に「スカイパーフェクTV!」を立ち上げる。99年BSフジに出向。12年執行役員。13年専務。13年フジ・メディア・ホールディングス(FMH)常務。15年FMH専務。19年FMH社長。21年フジテレビ社長を兼任。