【プロレス蔵出し写真館】東京・後楽園ホールの60周年を記念して15、16日にプロレス興行「還暦祭」が開催された。

 プロボクシング興行の常設会場だった後楽園ホールにプロレスが進出して、いつしか〝プロレスの聖地〟と呼ばれるようになった。歴史を振り返ると様々な名シーンが思い浮かぶ。

〝神様〟カール・ゴッチが現役最後の〝芸術品〟を公開したのも、ここ後楽園ホール。今から40年前の1982年(昭和57年)1月8日、新日本プロレスの興行だった。ゴッチは愛弟子・木戸修のバックを取ると素早く後ろに投げ、ジャーマンスープレックスホールドを決めた。

 ゴッチは前年の暮れに来日して、新日本の道場で若手レスラーを対象にゴッチ教室を開いていたが、年明けの後楽園2連戦には選手としての出場を希望し、藤原喜明(1月1日の元旦興行)、木戸との対戦が実現した。

 ところで、ゴッチがジャーマンを日本で初公開したのは、61年(昭和36年)5月1日、東京体育館での初来日第1戦。〝火の玉小僧〟吉村道明と45分3本勝負で激突し、1本目を先取したのがこの技だった。この貴重な映像は、今でもユーチューブで見ることができる。

 ゴッチのジャーマンで語られる名シーンは、国際プロレスに参戦した「第3回IWAワールド・シリーズ」でのモンスター・ロシモフ戦(71年4月30日、東京・品川公会堂)。アンドレ・ザ・ジャイアントになる前で体型がまだ細かったとはいえ218センチ、180キロのアンドレを投げてホールドしている写真に瞠目(どうもく)したオールドファンも多かった。

 日本人レスラーが国内でジャーマンを初披露したのはヒロ・マツダが知られるが、ゴッチに師事したアントニオ猪木も69年6月12日の秋田大会でクルト・フォン・ストロハイムを相手に初公開した。猪木はここぞという場面で使った印象が強い。

 70年8月2日、福岡スポーツセンターで、時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアに挑戦した試合では2本目に披露して、1-1のタイに持ち込みファンを熱狂させた。71年8月5日、愛知県体育館で行われたUN王座防衛戦ではジャック・ブリスコにさく裂。いずれも、きれいなブリッジでフォールを奪った。

 シチュエーション的には〝昭和の巌流島〟と謳われたストロング小林戦が秀逸だ。ジャーマンを決めた後バウンドして、一瞬首だけのブリッジで支えた伝説のシーンは今でも語り草だ。猪木自身は「ジャーマンは得意じゃない」と語っていたが、かつて日本での第一人者といえば猪木だった。

 初代タイガーマスクがデビュー戦(81年4月23日、蔵前国技館)でダイナマイト・キッドに決めた際は高さが特徴的だった。最後の決め技がジャーマンというのも、タイガーマスクがブレークした一因でもあるだろう。

 さて、後年、様々なレスラーが好んで使うようになり決め技としてでなく、技の攻防の一環としても使われるようになり、「四天王プロレス」では投げっぱなしも流行した。

「ジャーマン? 以前、鶴見(五郎)が、『ヘタに投げっぱなしにされる方が怖い。投げっぱなしは受け身を取りやすい反面、ケガすることも多い。ちゃんと最後まで責任もって、ホールドしてもらわないと。どっちにしろ、後頭部から落ちるから、危なっかしい奴には身を預けない』って言ってましたね」そうプロレスライターの清水勉さんが教えてくれた。

 ところで、ゴッチのジャーマンが他のレスラーと違うのは、投げるのが早く、決めた後に爪先立ちにならない点。ベタ足でマットに着いているので、重心が低く安定するのが特徴だった。
 
 きれいな弧を描いて投げた後ホールドするジャーマンは見映えがいい。〝本家〟ゴッチのジャーマンは美しく、まさに芸術品と呼ぶにふさわしい(敬称略)。