フジテレビの金光修社長(67)の著書「あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965」(03年)と「東京ビートポップス~音楽も街も人もワクワクしていたあの頃」(10年)が、扶桑社から電子書籍で復刊された。80年代から90年代にかけて「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」などを手掛けて、フジテレビに黄金時代をもたらした“伝説の編成マン”。昨年6月のフジテレビ社長就任以来、初めてスポーツ紙のインタビューに応えて、その思いを明かしてくれた。

   ◇   ◇   ◇

83年にフジテレビに入社。87年に映画「私をスキーに連れてって」のプロジェクトを実現させると、編成マンとして89年「料理の鉄人」、90年「カノッサの屈辱」、91年「カルトQ」などテレビ史に残る数々の番組を手掛けた。

「いっぱいありましたからね。編成に移動したのが30歳をすぎたぐらいで、なんだか分からないけど、なんでもかんでもやらしてくれました。特に深夜とか早朝とかはね」と振り返る。

ブームを巻き起こした番組とは別に、印象深い番組として92年に始まった「アジアバグース」と94年の「Revolution No.8」を挙げる。

「アジアー」はアジアで活躍するアーティストの育成を目指した視聴者参加型の歌手オーディション番組。インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイでも毎週放送された。「今でも、よくやったなと思います。例えばシンガポールまで行って『こういう番組を作るから、タイムテーブル開けてください』と。それでオーディション番組だから、シンガポールで収録をするから、インドネシアから、マレーシアから来てくださいと頼んだ。それぞれの国でオーディション番組をやって年に1回、グランドチャンピオン大会を日本でやった。それで、その国の視聴率トップになってスターが生まれたりしました。いまもインドネシアの女優になって、活躍している人がいる。各国でオーディションをやったり、シンガポールの放送局のスタジオを借りて、収録したりね。それで4本撮りして、マンスリーチャンピオンを決めて、マンスリーチャンピオンを集めてグランドチャンピオン大会をやりました。グランドチャンピオンはポニーキャニオンから、国際的にCDを出すってやっていた。インドネシアで視聴率1位だし、マレーシアでも人気番組になった。フジテレビの大みそか特番ですからね。深夜0時から始めて、朝の5時ぐらいまで生放送で盛り上がりました。あの頃は、そんなのやる発想もなきゃ、何の意味もない。ネットもない時代です。でも、僕はそういうことをやったら面白いだろうっていうのと、インドネシアの歌のうまい人は絶対に欧米に出ていけるだろうっていう自信があった。だから、その企画を作ってやれと思って、若かったですけどいろいろな国に行って『こういう番組がやりたいんです』って交渉した。今じゃ考えられないし、NHKの人には『よくやったね』って言われましたよ」。

80年代から90年代にかけて、新しい文化をテレビで生み出し続けた。

「でも、私はよく言うんですけど、当時の1番のトレンドセッター的なメディアは雑誌だったんです。雑誌が一番早かったんです。音楽であり、ファッション、サブカルであれ、なんであれ、テレビって、もう全然遅れていたわけですよ。だから、流行自体はテレビからなんか出てないわけですよ。要するに、若者の文化は雑誌からできたんだから、私は“雑誌なんかに負けちゃダメだ”と思って、それよりもとがったものやるんだって勢いでやってましたけどね。まあ、そういうことができた時代でした。今ではお金の問題を抜きにしても、やろうとする人はいないし、やらせてくれないでしょね。だって勝手に外国に出かけて行っちゃって、他国の局の枠とってですからね。それでレギュラーのウイークリーの番組を7年間もやってたから、すごいと思います。日本では深夜ですが、向こうの国ではゴールデンタイムで放送されていました。私も、かなり取材を受けました」。

【小谷野俊哉】(続く)

【フジ金光社長連載1】西武百貨店「おいしい生活」「VAN石津謙介さんから手紙をもらった」>>

◆金光修(かねみつ・おさむ)1954年(昭29)10月28日、東京・石神井生まれ。78年早大第一文学部を卒業して、西武百貨店入社。83年フジテレビ入社。編成担当として「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「カルトQ」「ワーズワースの庭で」「バナナチップスラブ」「ラスタとんねるず」などの番組を手掛ける。97年CS放送立ち上げのためジェイ・スカイ・ビー派遣され、98年に「スカイパーフェクTV!」を立ち上げる。99年BSフジに出向。12年執行役員。13年専務。13年フジ・メディア・ホールディングス(FMH)常務。15年FMH専務。19年FMH社長。21年フジテレビ社長を兼任。