【長嶋清幸 ゼロの勝負師(38)】韓国プロ野球サムスン・ライオンズの宣銅烈監督のもとで打撃コーチを1年やり、2010年からロッテの二軍監督になる高橋慶彦さんに声をかけてもらった。宣銅烈監督は翌年もやってくれると思っていたようで「ええ~っ!」とすごく驚いていたけど、理解してくれた。俺もやっと韓国での生活に慣れていたし、続けようと思っていたんだけど、こういう話がきちゃうとね…。お別れに選手が家に招待してくれたりした。寂しいけど、ありがたい1年だったね。

 ロッテでは慶彦さんを打撃コーチとして支え、1年目にイースタン・リーグを制して日本一にもなれた。一軍であれ、二軍であれ、監督を男にするというのが俺の信条。ロッテでの4年間で一、二軍でコーチをさせてもらった。給料は安かったけどね。

 そして13年の秋季キャンプ中に、中日でお世話になった森繁和さんから連絡をもらった。「落合GMがお前を、と言っている。一緒にやるか」と…。落合博満さんがGMとして中日に復帰するという。立場上、俺のことなんかはっきり言ってどうでもいいのに声をかけてくれた。04年から落合さんのもとでコーチとして3年間お世話になった経緯があった。最後の年は先輩コーチと溝ができて、俺は不可解な形で球団を去ることになり、その時、電話で落合さんは「マメ、すまん。理由は言えない。墓場まで持っていく」と。納得はできなかったけど、落合さんは俺に申し訳ないという気持ちをずっと持ってくれていた。いつかまた中日に来ることがあれば、マメに声をかけようと思ってくれていた。ありがたいし、すごいなと思ったよ。

 GMということは一、二軍全体を見て、球団内部のことをやっていくのかな、というイメージ。監督は選手兼任の谷繁元信で森さんがヘッド。俺は外野守備走塁打撃コーチとして若い監督を支えていく。

 谷繁監督は…年も離れているし、若いころは無鉄砲な印象だった。しかし横浜、中日で実績を重ね、捕手として相手打者に認めさせちゃう存在になった。プレッシャーを与えることのできる捕手ってすごいし、ケガもしなかった。監督を男にするという信条は今まで通り。でも、俺のほうが年上なもんだから向こうも気を使って遠慮していたところはあったと思う。

 それに落合GMの存在があるので、監督という立場なのに「選手時代の自分と落合監督」みたいになっちゃった。GMはそれほど現場に口を出していたわけではないけど、ここという時には俺らの知らないところで話はするよね。森さんだけは中立の立場で中に入っていた。森さんはいつも落合さんの考えをわかりやすく、かいつまんで監督に話していた。「お前、勝手にしろ!」と監督にキレることもあった。選手兼任で、周りにGMや先輩コーチがいるし、やりづらかったと思うよ。成績も振るわなくて…。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。