【長嶋清幸 ゼロの勝負師(39)】中日は2013年オフに落合博満さんがGMに就任。俺は外野守備走塁打撃コーチとして選手兼任の谷繁元信監督を支えることになった。若い監督なんでやりにくかったと思う。気を使っているのが分かるし、ミーティングでもちゃんと言えないというか、歯切れが悪かったね。GMは現場にはよく来ていて、大事な話は監督室に入ってやって、コーチ室に来ることはなかった。

 周りから見たら雰囲気が重く見えたかもしれない。それは監督、GMとしてお互いに意思疎通ができていなかったからだと思う。落合さんは監督時代、現役の谷繁をあまり信用していなかったんだけど、それが変わっていって谷繁がいい選手になり、監督と信頼関係ができるようになっていった。

 GMからしたら、谷繁という男は意思疎通ができると思っていただろう。でも、谷繁も監督になったからには、やりやすい仲間を集めてチームを率いたかっただろうし、それが思うようにできない。使う選手も1から10まで全部分かっている選手ばかり。純粋にゼロから見たほうが監督として絶対にやりがいあるし、楽しい。かといって思い切った戦力を入れてくれるわけでもなく…。そういうところだったと思う。落合さん自身も歯がゆかっただろう。

 選手の契約にしても厳しいコストカットだと言われた。井端弘和ら去っていく選手もいた。でもそこは、強かったら年俸は上がるし、弱いのに上がるのかって話。今は順位関係なしに個人が活躍したらバカみたいに上がる。昔じゃ考えられなかった。まあ、余計なことを言うやつは去っていったということだろうし、こっちは現有戦力でやるべきことをやるしかない。

 14年が4位、15年が5位、谷繁監督は監督専任となった3年目の16年8月に佐伯貴弘コーチとともに休養となり、森ヘッドが代行して6位に終わった。14年には佐伯二軍監督の“パワハラ報道”があったりして、本当に大変だったと思う。とはいってもこの世界は成績が全てなんで、今年ダメだったらヤバいのかな、とは感じてた。16年オフに落合さんが去り、17年から森さんが監督に。俺は森さんに信頼してもらって一軍コーチとして18年まで現場に残ることができた。

 本当はね、19年もまだユニホームを着るという話だったんだけど、球団として落合さん関係を一掃するということで、急に現場を離れることになった。与田剛新監督にもどうにもできないと…。それで編成に行くことになり、西のオリックス、広島、ソフトバンク、阪神の二軍戦を見て補強面をやることになった。

 1997年に引退し、解説者2年、コーチ生活は19年。自慢じゃないけど、今まで就職活動をしたことない。引退後もいろんなところから声をかけてもらえた。それが今回は声がかからない…。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。