【多事蹴論(38)】 ボンバーヘッドが本気で嫉妬したスター選手とは――。1999年に東京Vとプロ契約したDF中沢佑二は特徴的なアフロヘアと身長187センチから繰り出す打点の高いヘディングを武器に活躍し「ボンバーヘッド」の愛称で親しまれた。Jリーグ新人王をはじめ199試合連続出場や178試合連続フル出場など数々の記録をマークした。

 中沢は苦労人としても知られる。埼玉・三郷工を卒業後はプロ選手を目指して本場ブラジルにサッカー留学し、試合に出場するようになった。だが、同国のビザの関係でプレー継続を断念。帰国した98年にJ各クラブへ連絡を入れて練習参加を要請し、東京Vが受け入れてくれることになり、自宅のある埼玉から片道約2時間かけてグラウンドのある東京・稲城市まで“通勤”。日々レベルアップに取り組み、99年からプロ契約を結ぶことになった。

 プロ1年目でJリーグデビューを果たした中沢は好パフォーマンスを発揮し、2000年シドニー五輪を目指すU―22日本代表に選出。同年9月にはA代表にも初招集されるなど、スター街道を駆け上がった。フィリップ・トルシエ監督が指揮した02年日韓W杯こそメンバー入りを逃してしまうが、ジーコ監督が率いた06年ドイツ大会でW杯初出場。1次リーグ3試合に出場した。

 そして10年南アフリカW杯出場に向けて日本代表キャプテンとしてチームをけん引する中、本紙記者が浮かない表情の中沢を直撃すると「メディアはいつも闘莉王、闘莉王って…。どうなんですか? あいつは良い選手だし、ゴールも決めているけどね。闘莉王に対しては別に、どうこうってわけではないんだけど…俺の方が日本代表では点を取っているのに…」と珍しくグチりだしたのだ。

 日系ブラジル人の父を持つ闘莉王は高校生だった98年に来日し、03年に日本国籍を取得。04年に加入した浦和時代には積極的な攻撃参加でゴールを量産し、注目を集めていた。08年にはシーズン2桁となる11ゴールをマークし「超攻撃的DF」と称されるなど、本職のFWをしのぐ決定力を示していた。それだけに日本代表でも、闘莉王のゴールに期待する報道が相次いでいた。

 ただ、センターバックでコンビを組む中沢も得点感覚に優れ、決定力には自信があった。自慢のボンバーヘッドを武器にA代表通算17得点(闘莉王は通算8得点)をマーク。これは日本代表で歴代14位となる記録で名ストライカーのFW柳沢敦と同じだ。もちろん、DF登録選手として最多得点者となる。それだけにメディアで闘莉王ばかりが注目されることに軽いジェラシーを抱いてしまったわけだ。

 ただ、中沢は「それでも闘莉王には普段から(ゴール前に)『行ってこい!』って言ってますけどね」と日本代表の勝利のため、オーバーラップを推奨。グチこそこぼすものの“ここぞ”の場面では後輩DFに花を持たせていた。