【プロレス蔵出し写真館】アントニオ猪木が自身のユーチューブチャンネルで、「実は、腸が剥がれちゃったみたいでまた再入院。せっかくいいとこまで来たんですが。でも元気を復活させました」と病院のベッドの上から近況を報告した。一日も早い回復が待たれる。

 さて、そんな猪木が24歳の時の巡業でのひとコマ。

 今から54年前の1967年(昭和42年)6月24日、前夜の試合地・高松から高知に移動する在来線車内。気持ちよさそうに寝息を立てる猪木に後部座席から〝魔の手〟が迫った。細いヒモ状のモノで顔をくすぐるイタズラを仕掛けたのは27歳のミスター・イトーこと上田馬之助。違和感を感じたのか、猪木は顔をしかめた(写真)。

 猪木はこの年の4月6日午後、日本プロレスへの復帰会見を行ったのだが、それに先駆けて午前中に青山レスリング会館で行われた合同練習に参加。真っ先に歓迎の握手を求めたのは上田だった。車内でのイタズラは、そんな2人の仲の良さが伝わる光景だった。

 さて、2人は78年(昭和53年)2月8日、新日本プロレスの日本武道館大会で日本初となる〝伝説〟のネールデスマッチを行った。二寸五分(約13,64センチ)の釘が打ちつけられた板36枚がリングの周囲に敷き詰められ、鉄パイプのフェンスで板を囲んだ光景に、観客席は異様なムードに包まれた。

 試合は猪木がアームブリーカーで上田の左腕を破壊して、11分2秒で決着した。釘板に落ちることはなく、客席は微妙な雰囲気ではあった。

 猪木と上田の関係といえば、オールドファンには〝クーデター事件〟が脳裏に浮かぶのではないだろうか?

 71年11月、猪木は日プロのクーデターを企てたとして、除名、追放処分になった。幹部による不正を追及、会社を正常化することが目的だったとされるが、上田が幹部に密告して計画が発覚し、乗っ取りと判断された。

 07年、東スポに上田の連載「金狼の遺言」を執筆し、呼吸不全で11年12月21日に亡くなった翌12年8月に「金狼の遺言 完全版」(辰巳出版)を著したスポーツライターのトシ倉森さんが、生前の上田の想いを語ってくれた。

「(ジャイアント)馬場さんをかばうため責任をかぶった。寛ちゃんにだけは真実をわかってほしいと東スポに遺言を託した。一番の親友であった寛ちゃんから、公然と裏切り者呼ばわりされるようになった。これが何より悲しかった。今でも、その気持ちは変わらない。そう言ってましたね」

 猪木は後年、上田の気持ちをくみ取り、すべてを水に流したと明かしていた。86年3月21日に岐阜で猪木は上田と初タッグを結成。同月26日、東京体育館での新日本対UWF5対5イリミネーションマッチに〝秘密兵器〟として上田を起用。前田日明の足をつかむと強引に場外に引きずり出して失格に追い込み、観客を大いに沸かせた。

 翌87年1月14日、後楽園ホールで行われた藤波辰巳(現・辰爾)VS木村健吾のシングルワンマッチ興行ではレフェリーを務めるなど、猪木との良好な関係が伺えた。

「元々、猪木さんとは若手のころからウマが合い、お互いセメントで強くなろうと切磋琢磨したそうです。猪木さんは想像以上に体が柔らかく、道場で一回極め合いをしたがお互い極め切らなかった。そう上田さんは当時を懐かしんでましたね」(倉森さん)

 上田の遺骨は遺族によって九州の海に散骨された。生前、「またペンサコーラ(米フロリダ州)に住みたい」と言っていた上田の想いは叶えられた。

 ところで、ネールデスマッチが行われた日、とんでもない第0試合が行われていた。「マスコミもリングに上がってやってみろ!」と猪木が発案し、ポケットマネーを出してマスコミによる「30万円争奪バトルロイヤル(報道各社2名ずつ、18人参加)」だ。最後に残った2人は合気道3段の本紙・川野辺修記者と柔道5段テレビ朝日のディレクター。いつまでも決着のつかない展開に、山本小鉄の「お前ら、もういい加減にしろ!」怒声が飛び強制終了。賞金5万円ずつ受け取り、残りは参加者で分配した。

 その川野辺記者は、全日本プロレス担当として東スポを支えたが、入社50周年を迎えたことを区切りに、今年5月に退職する。川野辺記者、長い間お疲れさまでした(敬称略)。