【プロレス蔵出し写真館】今から43年前の1978年(昭和53年)11月25日、西ドイツ(当時)のシュツットガルトで、無名の外国人レスラーがアントニオ猪木を圧倒して、黒星をつけファンに衝撃を与えた。

〝地獄の墓堀人〟ことローラン・ボック。後年まで語り継がれるこの試合は、〝シュツットガルトの惨劇〟と呼ばれた。

 ボックは、モハメド・アリ戦を実現させた猪木のネームバリューを当て込み、11月7日から29日まで「欧州世界選手権シリーズ(公式名称は「KILLER INOKI EUROPA‐TOURNEE 1978」)」と銘打たれた大会をプロモート。西ドイツ(当時)、スイス、オーストリア、オランダ、ベルギーの5か国で興行を開催し、猪木を連日メインイベントで起用した。

 その相手は〝赤鬼〟ウィリエム・ルスカ、〝欧州の鉄人〟ジャック・デ・ラサルテス、ローマ五輪アマレス金メダリストのウィルフレッド・ディートリッヒ、アマレスで五輪3大会出場のユーゲン・ウイスバーガー、チャールズ・ベルハルスト(ジョニー・ロンドス)、オットー・ワンツ、異種格闘技戦として元プロボクシングWBC世界ヘビー級3位のカール・ミルデンバーガーと、そうそうたるメンバーだった。猪木にとって過酷なツアーだった(それでも、番外マッチとしてスイスのチャリティイベント〝スポーツの祭典〟にも出場し、スイスの山岳チャンピオンだったルーズ・ハンスバーガーとエキシビションを行った)。

 猪木との一戦は、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」で放映され、ファンはボックの強さに驚愕した。

 4分10ラウンドで行われた試合は、猪木がフルネルソンを決められたまま振り回され、受け身の取れないフロントスープレックスを食らった。空手チョップとヘッドバットで反撃するも、まったくいいところがなく、猪木は判定負けを喫した(猪木が欧州の硬いマットで負傷し、満身創痍だったことはテレビ放送だけでは伺い知ることはできなかった)。

 このツアーで猪木と3回対戦したボックは、1勝(判定)1敗(反則)1分け(両者リングアウト)と五分の戦いを演じた。

「いやー、しんどかった。成績? 決して満足しているわけではないが、あのスケジュールでは精いっぱい。ボック、ディートリッヒが強かった」最終戦を終え、猪木は同行した本紙・加藤知則記者にそう語った。

 さて、そのボックが初来日するのは2年以上経過した81年。7月30日、大阪府臨海スポーツセンターでの第1戦では木村健吾(後の健悟)をわずか95秒、ダブルアームスープレックスで葬り去り、ファンのド肝を抜いた。
 
 8月2日の後楽園大会ではまたもダブルアーム――を爆発させ、3分28秒で長州力をピンフォール。同年12月に2度目の来日の際にも短時間決着で勝利を重ねた。

 実は、ボックは79年に来日する予定だったが、自動車事故で負傷し延期になっていた。さらに同年12月15日、西ドイツ・ジンデルフィンゲンでの〝大巨人〟アンドレ・ザ・ジャイアント戦で左足に血栓症を患った。そのため、長時間のファイトは無理だったようだ。

 82年の元旦興行に3度目の来日を果たし、猪木と再戦が実現するもボックの反則負け。試合は凡戦に終わり、ファンを失望させた。残念なことに、これがボックの現役最後の試合となった。 

 ところで、ボックが初来日した81年。8月1日に東伊豆の城ヶ崎海岸でジャンボ鶴田の合宿取材をして、鶴田と一緒に伊豆急行線で帰京する際、新幹線に乗り換える熱海駅で東スポを購入した。その紙面には「ローラン・ボック強烈日本初登場」の見出しが躍っていた(輸送の関係で熱海では東スポは1日遅れで販売されていた)。

 紙面を見てボックの話題になると、鶴田はボソっとひと言。「あれはプロレスじゃない」。「秒殺でしたね」と振ると、「君はプロレスをわかってないなー」と一笑に付されて話は終わった。鶴田は、ボックのファイトスタイルを認めていなかった。

 とはいえ、ボックはあのシュツットガルトの一戦で当時のファンに強烈な印象を与え、記憶に残るレスラーとなったのは間違いない(敬称略)。